ゲティスバーグの戦い|北軍の勝因

ゲティスバーグの戦い|勝因・敗因 戦いの勝因・敗因

ゲティスバーグの戦い|北軍の勝因

ゲティスバーグの戦い 北軍の勝因

ゲティスバーグの戦いとは、1836年7月1日から7月3日に起こった南北戦争におけるターニングポイントとなった戦いのことです。

ゲティスバーグの戦いはペンシルベニア州アダムズ郡の近郊で行われた南北戦争史上最大の戦いで、ジョージ・ミードを指揮官とするアメリカ合衆国(北軍)とロバート・E・リーを指揮官とするアメリカ連合国(南軍)が戦いました。

ゲティスバーグの戦いまでは、チャンセラーズヴィルの戦いで北軍が敗北を喫するなど、南軍側が有利に戦いを進めていましたが、ゲティスバーグの戦い以降、アメリカ合衆国(北軍)に形勢が傾くことになります。

では、なぜ北軍(アメリカ合衆国軍)はゲティスバーグの戦いに勝つことができたのでしょうか?北軍の勝因とは何だったのか、について見てみることにしましょう。

ゲティスバーグの戦いでの北軍の勝因として、まず挙げられるのは、ウィンフィールド・スコット・ハンコック将軍の活躍です。

攻勢に出た南軍の攻撃に耐えていた北軍側は第一軍団司令官のジョン・F・レイノルズ将軍を、砲撃によって早々に失ってしまいます。後任の指揮官にはアブナー・ダブルデイが任命されますが、午前中は持ちこたえたものの、圧倒的な南軍の力によって前線が崩壊し、北軍は撤退を余儀無くされていました。

しかし、防衛戦闘に優れていたハンコック将軍は、ゲティスバーグの南の丘に陣地を構築して戦うという方法を思いつきます。こうしてハンコックは、カルプス・ヒル/セミタリー・ヒル/セミタリー・リッジ/ラウンド・トップ/リトル・ラウンド・トップの5つの主要な防衛線を築き上げました。

こうしたハンコック将軍の功績によって、北軍は戦闘を有利に進め、徐々に盛り返すきっかけを作ることができたのです。

このまま戦いを進めることができればよかったのですが、2日目に入るとダニエル・シックルズ将軍の行動によって、一転して情勢は拮抗してしまいます。シックルズ将軍がセミタリー・リッジ以南の守備軍を配置換えし、最前線に移動させたため、これによってリトル・ラウンド・トップ防衛線が手薄になってしまい、南軍の猛攻を受けることになります。

混戦になったリトル・ラウンド・トップ防衛線の戦いで勝敗を分けたのは、たまたまこの防衛戦にいた通信兵の存在です。この通信兵が南軍の行動を即座に察知して本部へ報告し、戦況把握の任務にあたっていたウォーレン将軍が適切な対処を行いました。彼はまず4個連隊を捻出し、速やかにリトル・ラウンド・トップへ派遣しました。

その後、リトル・ラウンド・トップ周辺では、4時間以上の熾烈を極めた戦いが行われました。これはゲティスバーグの戦いにおいて最も激しく、また両軍の被害が大きかった戦いでしたが、総司令官ミード将軍の巧みな戦闘指揮もあって、南軍は結局、巧みに配置された防衛線の突破ができず、突撃戦により兵力を失い、撤退を余儀なくされるのです。

こう見ると、ゲティスバーグの戦いでの北軍の勝因は、ミード将軍、ハンコック将軍などの北軍の諸将が適切な判断を下したところにありますが、本当の“勝因”は、シックルズ将軍の判断ミスによる戦線崩壊を間一髪で防いだ通信兵とウォーレン将軍の危機対応能力だったのかもしれません。

日本・世界の主要な戦いの勝因・敗因がここに・・・

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