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井伊直弼|偉人列伝安政の大獄を引き起こし、桜田門で刺客によって暗殺された有名な人物として、井伊直弼(いい なおすけ)の名がすぐに思いつく人も多いでしょう。井伊直弼は開国を迫る外国に対して、天皇の勅許が無いまま独断で開国を断行した悪役として描かれることの多い人物ですが、実は悪役とは思えないような井伊直弼のエピソードも存在しているのです。

井伊直弼は、1815年に現在でいう滋賀県彦根市に誕生しました。井伊家は当時の藩主であり、戦国時代から続く名家として知られていましたが、直弼は14男だったために城には住まず、自ら「埋木舎」と名付けた質素な屋敷で青春時代を過ごしました。14男ということは、つまり生まれながらにして既に藩主になる道は閉ざされていたようなもので、自らを森に埋もれる木として例えるほど肩身の狭い生活を送っていたのです。

井伊直弼が若かりし頃に書いた書物によると、世の中を嫌っているわけではないが出世の望みもなく、ただひっそりと家に閉じこもって自分の役目を果たすだけだというような内容を記しており、謙虚で慎ましい性格を窺い知ることができます。他の兄弟たちは次々と他家へ養子へ行くことが決まりましたが、直弼はなかなか養子先が決まらず、埋木舎で武術や学問、茶道など様々な分野の勉学に励むようになりました。

そんな生活の中、父親の跡をついで藩主となっていた12代藩主である兄の跡取り息子が亡くなってしまいます。本来であれば、その次の兄が藩主としての座に就くところですが、他の兄弟は既に全員他家へ行ってしまっていたので、14男であった直弼が藩主になるという事態が訪れました。藩主となった挨拶のために将軍のもとへ参じた井伊直弼は、感激のあまり涙を流しながら突然このような身分になることができて有り難い限りであり、今後は必ず善い政治を行うように努力するといった決意を書物に記しているほどです。

このように真面目で努力家であった一面も持ち合わせていた井伊直弼は、その生真面目さゆえにアメリカと交わした条約締結後も、天皇からの許しを得るために何度も関係者たちへの説得を行っています。当時の日本では技術の進んだ外国と戦争をしてもまず勝てないこと、交わした条約は一時的なもので、後に国力を蓄えてから鎖国に戻す予定であることなどを幕閣のみならず公家たちにまで丁寧に説明しています。この努力の結果、条約を締結してから半年後には、当時の天皇から今回の条約締結はやむを得なかったとして勅許をいただくことに成功しました。

身に危険を感じた井伊直弼は・・・

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