奉天会戦|ロシア軍の敗因

奉天会戦|勝因・敗因 戦いの勝因・敗因

奉天会戦|ロシア軍の敗因

奉天会戦 ロシア軍の敗因

奉天会戦は、日露戦争における最後の会戦です。中国の奉天(現在の瀋陽)を舞台に1905年3月1日から3月10日にかけて行われました。

大山巌を総司令とする大日本帝国陸軍24万人に対し、迎え撃つアレクセイ・クロパトキン指揮のロシア帝国軍36万人という参加兵力から見ても世界史的に大規模な会戦となりました。

日露戦争開戦後、兵力に劣る日本軍は緒戦から勝利を続け、戦争全体の優勢を保っていましたが、これは当時の日本の国力を超えた戦いであり、すでに補給線は限界近くまで達していました。また、旅順攻囲戦などの激戦が連続し、兵力の補充も困難な状況となっていました。

一方、兵力的には優勢であるはずのロシアも、血の日曜日事件の発生など国内情勢に不安が生じ、戦争の継続は難しい情勢にありました。

そのような状況下にあった1905年3月、大日本帝国陸軍の満州軍首脳は日本軍有利の内に講和を結ぶべく、全ての兵力を賭けた総力戦を挑みます。これが奉天会戦です。

3月1日に奉天に対する包囲攻撃を開始した日本陸軍でしたが戦況は有利に進展せず、ロシア軍に撃退される状況が続きます。

ロシア軍のほうでは、総司令官クロパトキンは当初左翼を攻撃していた鴨緑江軍を第三軍と思い込み、左翼に大量の予備兵力を送ります。しかし、第三軍がロシア軍右翼を包囲する動きを見せたことを知ると、左翼に送った予備兵力を右翼に転進させます。ロシア軍の猛攻は続き、日本陸軍の前線を崩壊寸前に追い込みます。

【奉天会戦 布陣図】

奉天会戦 布陣図

このまま戦況が進む、あるいはクロパトキンが総攻撃を命じてしまえば、日本軍は完全に崩壊したと思われますが、日本軍首脳部はあくまでも全戦線にわたる総力戦を指令します。しかし、あまりにも損害が大きいため、児玉源太郎参謀長は作戦全体の方針を転換することを決意。第四軍と第二軍に奉天への進行を命じます。

しかし、ここで予測出来ない事態が起こります。なんと戦いを有利に進めていたはずのロシア軍が撤退を開始したのです。これは第三軍によって退路を遮断されることを恐れたクロパトキンの命令によります。これは日本軍の首脳部も予測できなかった事態でした。結果、無人となった奉天に日本軍がなだれ込み、奉天会戦は終結します。

この会戦での日本軍の死傷者は7万人、ロシア軍の死傷者は9万人(捕虜数万人)とどちらも甚大な損害を受けています。会戦終了後、勝利した日本軍はこれ以上戦線を広げることは不可能な状態となっていました。

一方のロシア軍は戦力的にはまだまだ余裕がありましたが、士気が大きく下がってしまい、こちらもこれ以上戦闘を継続することが難しい状態にありました。

この奉天会戦におけるロシア軍の敗因とは、総司令官クロパトキンがあまりにも乃木希典の第三軍を過大評価してしまったことにあると言えます。第三軍の動きを警戒し過ぎ、兵力数すらも見誤っていました。その結果、最終的には第三軍に包囲されることを恐れ『撤退』という誤った判断をしてしまったのです。このクロパトキンの判断こそ奉天会戦におけるロシア軍の敗因なのです。

日本・世界の主要な戦いの勝因・敗因がここに・・・

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