緒方洪庵|偉人列伝

偉人列伝

緒方洪庵|偉人列伝

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適々斎塾で緒方洪庵が教えていたものは、医者としての技術やオランダ語はもとより、重視していたのは心の教育だったといわれています。緒方洪庵は人が生きるうえで最も重要な「徳」の教育を根本として教え込みました。それはどんなに技術が優れていても、それを施すのは生身の人間だという思想からくるものです。

緒方洪庵は「医者たる者は他者を救うために生きろ」と言い切り、利害や損得勘定抜きで医療に携わったのです。

弘化二年、当時の適々斎塾が手狭になったため、現在の大阪中央区の過書町に移転しました。緒方洪庵は医師としても天然痘のワクチンの研究をし、天然痘の予防や治療に力を注ぎます。

嘉永二年、佐賀藩の医師である楢林宗健から種痘を譲り受け、大坂で除痘館を設立して、天然痘の予防接種を開始します。当時、陰で牛痘種痘を行う医者が多く存在し、医療事故が増大することを懸念した緒方洪庵は幕府に働きかけ、除痘館だけが幕府公認の免許制となりました。大阪にコレラが流行すると「虎狼痢治準」を出版し「家塾虎狼痢治則」を世に出しました。

そして文久二年、幕府よりかねてから依頼されていた要請を受諾し江戸に渡ります。伊藤玄朴宅に身を寄せ、幕府の奥医師兼西洋医学所頭取となり、将軍家茂より「法眼」の称号を与えられます。法眼とは医師として最高位の称号のことです。

文久三年、緒方洪庵は西洋医学所頭取役宅で吐血し、その血を喉に詰まらせて窒息死します。享年54歳でした。緒方洪庵はもともと病弱であったので、江戸での生活が合わなかったためか江戸に渡って間もなくのことでした。妻である八重はその23年後、明治19年に享年64歳で亡くなりました。八重の葬儀には門下生のみならず、政府関係者や名立たる著名人、そのほかの一般人など約2000名もの参列者がいたといわれています。

緒方洪庵は遺言を残す間もなく亡くなりましたが、その医師としての精神は数多くの弟子たちに受け継がれました。現代社会においても緒方洪庵の多大なる功績は、医学の発展に大いに貢献しているのです。