花井卓蔵|偉人列伝

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花井卓蔵|偉人列伝現代には多くの弁護士が存在し、市民のために立ち上がる弁護士や誰も引き受けたがらないような刑事事件の弁護を引き受ける弁護士など、弱いものの味方になる人がいます。その一人が花井卓蔵です。

花井卓蔵は明治時代や大正時代をかけて活躍した弁護士であり、当時はまだ馴染みのなかった弁護士の草分けになった人でもあります。

花井卓蔵は1868年、今の広島県三原市で生まれました。花井卓蔵は、幼い時から神童と称されており、10歳の時には進学のために東京へ状況を果たしますが、経済的な理由で帰郷を余儀なくされ、若くして小学校の代用教員として働きます。

その後、花井卓蔵は当時気運の高かった自由民権運動を始め、再び上京し、英吉利法律学校、現在の中央大学を卒業すると、23歳の若さで代言人試験に合格を果たします。代言人はフランスの代言人制度を参考にした今でいう弁護士のような制度でした。しかし、今の弁護士と違い、きちんとした資格制度が最初の方はなかったため、悪質な仕事をする代言人もいました。花井卓蔵が代言人試験を合格した3年後に弁護士制度が出来上がることになります。

花井卓蔵は弁護士として40年以上活動をしていて、刑事事件は1万件以上担当するなど、刑事弁護の第一人者としての評価を受けています。

有名なところでは足尾鉱毒事件で弾圧された農民の弁護や、大逆事件の被疑者の弁護、他にも日比谷焼打ち事件やシーメンス事件、米騒動などでも弁護を引き受けました。

その後、政治家に転身を果たすと、弁護士時代に磨き上げた弁論で時の政府に論戦を挑み、歴代政府の鬼門とも言われました。議員時代には、当時は一定の納税額がなければ選挙権が与えられなかったため、誰であっても選挙権を手にすることができる普通選挙法案を初めて提出したり、刑法改正案や陪審法案などにも携わるなど精力的な活動をしました。

その後、法律顧問や法制審議会の副総裁を務めるなど立法面からのアプローチをしながら活動を続けていましたが、1931年、63歳でその生涯を閉じることとなりました。花井卓蔵の通夜や葬儀には法曹関係者が多く詰めかけ、当時行われていた重要な裁判の公判が延期されるなど、大きな影響がありました。

花井卓蔵のエピソードを挙げてみると、現在の中央大学の学長就任を要請されて断ったこと、司法大臣就任を求められて拒絶したことがあげられます。花井卓蔵は愛校精神にあふれており、理事を務めるなど大学の要職にも就いていましたが、品行の悪さを理由に就任を断りました。一方で品性は高潔であるとも語り、弁護士としての品性には自信があるが、品行は悪いと謙虚に自分のことを評価しています。

同じ理由で天皇陛下の侍講も断っていた花井卓蔵ですが、司法大臣就任の件はこれらとは違う理由で、大臣の仕事は誰でもできるし、内閣が変わればすぐに辞めさせられる。しかし、弁護士はそれとは比較にならないほど尊いものだとして、弁護士としての職業に対する誇りをうかがうことができます。花井卓蔵の弁護士としての矜持、品性品格の重要性がよくわかるエピソードと言えるでしょう。

花井卓蔵のエピソードはさらに・・・