長篠の戦い|織田・徳川軍の勝因

長篠の戦い|勝因・敗因 戦いの勝因・敗因

長篠の戦い|織田・徳川軍の勝因

長篠の戦い 織田・徳川軍の勝因

長篠の戦いとは、1575年6月29日、現在の愛知県新城市で起こった織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼軍の戦いです。

長篠の戦いでは、初めて鉄砲が本格的に運用され、織田信長・徳川家康連合軍が圧勝しましたが、今回は、この長篠の戦いにおける織田・徳川軍の勝因を考えてみることにしましょう。

長篠の戦いの経緯

まず、長篠の戦いに至る経緯から見てみましょう。

桶狭間の戦いでは、わずか数千の織田信長軍が約十倍兵力で攻め寄せた今川義元軍に奇襲をかけ、今川義元を討ち取りました。その時、今川軍の一員として城を守っていたのが松平元康、後の徳川家康です。徳川家康はその後、今川家からの独立を図って勢力を拡大していきました。

桶狭間の戦いから15年後の1575年、織田信長軍と徳川家康軍が連合し、武田勝頼と対峙したのが長篠の戦いでした。

一方、甲斐と信濃を領土としていた武田氏は駿河などに侵攻し、領土の拡大を図ろうとしていました。一方、織田信長は上洛を果たしたものの、足利義昭との関係が悪化します。足利義昭が反織田信長の勢力の決起を諸大名に求める事態となり、それに呼応した武田信玄が徳川家康の領土だった三河に侵攻(三方ヶ原の戦い)することになります。

三方ヶ原の戦いでは、武田軍が織田・徳川連合軍を圧倒しました。しかし、この戦いの後、武田信玄は急死、上洛作戦は中止となり、撤兵していくことになります。その後、信長は反信長勢力を倒し、義昭を追放して天下人を自認する存在となっていきます。

こうした背景の中、1575年6月 長篠の戦いが起こります。当時、長篠城は武田氏から徳川側が奪還し、徳川方の奥平信昌が守備を固めていましたが、そこへ武田勝頼軍が大挙して侵攻し、長篠城での戦いとなります。

長篠の戦いにおける当初の動員兵力は、武田軍は1万以上、徳川軍はわずか数百の兵力で、数だけで見れば武田軍が圧倒的に有利でした。しかし、長篠城が谷などに囲まれた地形であったこともあり、猛攻を受け落城寸前になりながらも持ちこたえてました。

ここで徳川家康が織田信長に援軍を依頼、織田信長も立ち上がり、織田信長軍 30,000、家康軍 8,000の兵力が集まります。

長篠の戦い 織田・徳川軍の勝因

まず、織田・徳川軍の勝因として、動員兵力の上で有利に立ったことが挙げられます。

織田・徳川軍は、圧倒的多数の状態を作り上げながら、軍勢を集結させて誇示するのではなく、途切れ途切れに配置させ、圧倒的多数の軍勢ではないようにカモフラージュします。そして、堀を利用した急斜面を作り、当時では異例の野戦築城を構築しました。

【長篠の戦い 布陣図】

長篠の戦い 布陣

最初に打った織田信長の手は長篠城を包囲する武田軍への奇襲(鳶ヶ巣山攻防戦)でした。徳川軍の弓や鉄砲が上手な武士を集め、自身の鉄砲隊などの別働隊を酒井忠次に指揮させ、長篠城を包囲する鳶ヶ巣山砦に向かわせて奇襲を行い、救援に成功して武田軍の退路を脅かすことに成功します。

この鳶ヶ巣山攻防戦で武田軍の名のある武将が幾人も打ち取ったことで、長篠の戦いの勝敗に大きく影響を与えることができました。

その後、長篠城近くの設楽原で両軍が激突しますが、兵力的に優位な上に鉄砲隊を運用し武器効率の高かった織田・徳川軍が優勢に戦いを進め、武田軍を壊滅させる大勝利となりました。

そして、この長篠の戦いから7年後、武田勝頼は織田・徳川軍の甲斐侵攻になすすべなく敗れ、滅亡することになります。

長篠の戦いにおける織田・徳川軍の勝因については、鉄砲隊の運用が勝因の一つであるのは間違いありませんが、武田軍を大きく上回る兵力を動員し、前哨戦の奇襲作戦の成功により、野戦での決戦に追い込んだ織田信長の采配力によるところが大きかったと言えるでしょう。

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