マラトンの戦い|ギリシャ軍の勝因とペルシャ軍の敗因

ピュロスの勝利とは?

ピュロスの勝利とは

ピュロスの勝利とは「割に合わない」という意味の慣用句です。

「ピュロスの勝利」の由来は、紀元前3世紀のギリシャにまでさかのぼります。アレクサンドロス帝国の後継者たちが争い合ったディアドコイ戦争により弱い者が滅ぼされ、強い者が生き残り着々と力を付けていた時代でした。

北ギリシャのエピロス王であったピュロスは戦術に長けた人物でした。側近のキネアスがローマを征服した後のことを尋ねると、イタリア全土を征服すると答えます。イタリア全土の後はシチリア、カルタゴ、リビアと次々に征服すると答えます。それでも側近はそれらを征服したら次にどう行動するかを訪ねたため、ピュロスは飽き飽きするほど休むと答えます。

それを聞いた側近が体を休めてお酒を飲んだり思い出話をしたりするのは、たくさんの国と戦争し人々が血を流さなくてもできることだと諭しました。ピュロスは側近の話を聞くと不機嫌になり、その後も戦争を続けました。

確かにピュロスはローマ軍に勝利していましたが、遠征するたびに優秀な兵士たちを失い、最終的にはローマ軍に勝利しても自滅することに気づき嘆きました。彼がそれを知ったのは「アスクルムの戦い」の時で、ピュロス軍4万人に対しローマ軍もほぼ同数でした。ピュロス軍は、ローマ軍に6000人の損害を与え勝利しましたが、自らの精鋭も含めて犠牲者は3500人に及びました。

これでは勝っても「ローマ軍が再び攻撃を仕掛けてくれば、エピロスは滅んでしまう」とピュロスは嘆息したと言い、勝ち続けても犠牲の方が大きい様子が後に割に合わないとして、「ピュロスの勝利」という言葉が使われるようになりました。

ピュロスはアレクサンドロス大王の二従兄弟で、2歳で追放されるなどあまり穏やかではない人生を送っています。エピロス王として戴冠後も、17歳の時に反乱に遭い亡命し、波乱万丈の人生を送ったと言われています。

「ピュロスの勝利」を生んだピュロスは、戦いを続けた後、50代で死去しました。その死因は市街戦の時に名も無き女性に瓦を落とされ、気絶しているところを殺されたとも、使用人に毒殺されたとも言われています。

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