ワーテルローの戦い ナポレオン軍の敗因
ワーテルローの戦いは、1815年6月18日に起きたフランス皇帝ナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルト)最後の戦いです。
当時はオランダ領だった現在のベルギーにあるワーテルロー付近で、イギリスやオランダ、プロイセン軍とナポレオン率いるフランス軍が激突しました。
エルバ島から密かに帰還し皇帝の座に再び君臨したナポレオンに対し、当時のヨーロッパでは「第7次対仏大同盟」という、ナポレオンに対する包囲網が出来上がりつつありました。
この包囲網が完成するまでに包囲しようとする国々を各個撃破する必要があった、という背景の中、ナポレオンは自ら12万もの大軍を率いて出陣し、前哨戦となったリニーの戦いではプロイセン軍を相手に大勝しました。しかしながら、その直後に行われたワーテルローの戦いで大敗を喫し、さらに大同盟の連合軍による追撃を受けたナポレオンは、ついにイギリスに降伏をすることになったのです。
皇帝位に復帰してから再び失権するまでがあまりに短いことから、この期間を「ナポレオンの百日天下」と呼ばれる元になったワーテルローの戦いですが、ワーテルローの戦いにおけるナポレオン軍の敗因とは何でしょうか。
実は、ワーテルローの戦いを前にして、ナポレオンは「われわれには90パーセントの勝算がある」と語るほどに高い自信を持っていました。
実際に、ワーテルローの戦いの前哨戦となったリニーの戦いではプロイセン軍に対して大勝を収めることができました。
第7次対仏大同盟の中心はウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー将軍の率いるウェリントン軍と、プロイセン王国のブリュッヘル将軍の率いるプロイセン軍でしたが、このリニーの戦いで、プロイセン軍は兵力を失っただけでなく、ブリュッヘル将軍も負傷し、指揮権を参謀のグナイゼナウという人物に委ねなければならなかったほどでした。
リニーの戦いが終わった時点では、同盟の一角であるプロイセン軍に打撃を与えるとともに、ウェリントン軍から引き離すことができていたのです。
ナポレオン軍がこのままウェリントン軍とプロイセン軍の二軍を分断したままであれば、ナポレオンは勝利できた可能性が高いと言われています。
実際、ナポレオン自身もプロイセン軍をウェリントン軍との戦場から引き離すべく追撃を考えていました。しかしながら、追撃を任せたグルーシー元帥が、騎兵 35000人を率いてプロイセン軍を追ったものの、追いつくことができず、任務を完遂することができなかったことで、ワーテルローの戦いの戦局が大きく変わることになります。
そして、グルーシー元帥の追撃の失敗によってプロイセン軍とウェリントン軍との合流が成功してしまったのです。
そればかりか、ワーテルローの戦いが始まり、ワーテルロー方面から砲撃や銃声が聞こえても、グルーシー元帥は追撃の命令を遵守することを選択し、戦線に参加することはありませんでした。
その結果、ナポレオン率いるフランス軍 72000人に対し、ウェリントン軍の兵力は 68000人で優勢に戦いを進められたはずが、ワーテルローの戦いの途中でプロイセン軍 50000人の戦線参加を許し、ナポレオンは大敗を喫することになります。
【ワーテルローの戦い 布陣図】
このように見てくると、ワーテルローの戦いにおけるナポレオンの敗因は、プロイセン軍の追撃に失敗し、本体との合流をしなかったグルーシー元帥の状況判断にあったと言え、結局は、ワーテルローの戦いでの重要なポイントとなるプロイセン軍の追撃戦をグルーシー元帥に任せたナポレオンの判断の失敗にあったと言えるでしょう。