乃木希典|偉人列伝

偉人列伝

乃木希典|偉人列伝

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少将時代の乃木希典には、次のような逸話があります。希典が金沢を訪れた際に、辻占売りをしている少年を見かけました。少年が幼くして父を亡くしたため、一家の生計を担っていることを知った希典は、この子どもに当時は大金となる2円を渡したのです。少年はそのときの感動を忘れず、やがて金箔加工の世界で名を遂げたと伝わっています。乃木希典の人柄を偲ばせるこの話は、やがて唱歌や講談としても、大きく取り上げられるようになりました。

そして、乃木希典の軍功を決定づける戦争が始まります。それが、日清戦争です。この戦いで乃木希典は旅順要塞を1日で陥落させるなど、数多くの武功をあげ、将軍の右に出るものなしといわれるまでの、高い評価を受けることになります。すぐさま中将となり、さらには華族に列せられ、台湾総督を任せられるなど、生涯の中でも華々しい日々を送るようになりました。

しかし、その功績にも影がさす日がやってきます。乃木希典が、日露戦争、そして旅順攻囲戦の第3軍司令官として着任したのが、まさにこの時期でした。旅順要塞攻略は至難を極め、最終的には投入兵力延13万人、死傷者数6万人という、凄絶な戦いとなったのです。希典の不手際を非難する声も多く、戦後においてもなお、作家の司馬遼太郎は坂の上の雲などの著作の中で、徹底的な批判を展開しています。戦後、乃木希典は時間を見つけては遺族のもとを訪れ、自らの死をほのめかすような謝罪を繰り返しています。戦役講演に招かれたときですらも、「諸君、私は諸君の兄弟を多く殺した者であります」といって涙を流し、その後なにも話せなくなるなど、強い自責の念にとらわれ続けていたことがうかがえます。こうした乃木希典の思いは、彼の最期にも大きな影響を与えていったのです。

彼の思いとは裏腹に、乃木希典は日露戦争を勝利に導いた将軍として、世界的な評価を受けます。帰国後、明治天皇の勅命を受け学習院の院長を兼任した乃木希典は、昭和天皇の養育にもかかわるなど、教育者としても業績を残していきました。

そして大正元年、ついにそのときがやってきます。明治天皇の崩御を知った乃木希典は、まさに葬儀が行われている時間、自宅で妻とともに割腹自殺を遂げたのでした。乃木希典、満62歳、その遺書には西南戦争で連隊旗を奪われたことを償う旨が記されており、遺産の取り扱いにも細かく記すなど、乃木希典の真面目な性格を表すものとなったのです。その死は、多くの国民の悲しみを呼び、ニューヨーク・タイムズにも2面にわたって掲載されるなど、大きな反響を呼びました。彼の生涯は、それに対する批判も含め、今もなお語り継がれており、乃木希典は近代の日本を代表する将軍としての地位を不動のものとしているのです。

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