江戸に戻ってからは、ついに地球の外周の割り出し計算に挑みます。高橋至時所有の蘭学最新天文学書と、伊能忠敬の出した計算結果は、共に約4万キロという数値でピタリと合致していました。そして、これは現在認識されている地球外周とも、驚くことにたった1/1000という誤差しかない、とても正確な数値だったのです。
喜びあった師弟でしたが、天文学書翻訳作業などで過労・病に倒れた師、師匠である高橋至時は翌年37歳という若さで亡くなりました。
その後、この精密な東日本地図に驚いた幕府により、西日本(東海、九州、四国など)の地図作成も忠敬に幕命が下り、ようやく国家的研究事業となりました。1805年、伊能忠敬60歳にして江戸を再び出発、今回は100人以上の測量隊となったのでした。さすがの根気を持つ伊能忠敬でも、今回は60歳という年齢には勝てず、かなりの過酷な測量の旅となりました。
予定外の内陸部調査が増えたり、四国が広かったため、予定の3年を超過しても九州入りが出来ずにいました。九州にやっと入った伊能忠敬から娘宛の手紙には、「歯は抜け落ち一本しか残っておらず。大好きな奈良漬を食べることも叶わず。」ということが書かれていたというエピソードが残っています。さらには、測量隊で一緒に長年がんばってきた副隊長がチフスに倒れ亡くなってしまうという出来事もありました。
1815年2月19日、伊能忠敬70歳にして、最初の蝦夷地の測量を始めてから15年以上もかけてすべての測量が完了しました。彼が最初に測量を開始し、最終測量地点となった東京八丁堀まで歩いた総距離数は約4万キロとなり、彼が割り出した地球の外周に匹敵するものでした。
最終的に球面である地球の地図を平面に移すという数値の誤差を計算する作業中に、伊能忠敬は肺を病み、1818年に73歳で亡くなりました。その後も彼の死を伏せたまま、弟子たちにより伊能忠敬の偉業として日本地図は完成となったのです。