勝海舟は坂本龍馬に世界に目を向けるように促し、人生観を変えた人物でもあります。勝海舟は桂小五郎や高杉晋作など多くの人間と交流を重ねていましたが、福沢諭吉とは仲が悪かったと言われています。
その根拠は福沢諭吉が晩年に著した「痩我慢の説」にあります。その中には福沢諭吉の勝海舟に対する考えが書かれています。福沢諭吉は勝算がなくても敵に力の限り抵抗することが痩せ我慢と考えており、徳川家康を支えた三河武士の「士風の美」こそが痩せ我慢の賜物だとしています。よって薩摩や長州と徳川家の覇権争いである明治維新では、徳川家は痩せ我慢の精神を持って薩摩と長州に抵抗するべきと主張します。
一方、勝海舟は徳川幕府が役立たずで、薩長の藩士には勝てないと考えていました。勝算のない内乱は利益をもたらすことがなく、無駄な浪費を防ぐためにもすぐに降伏するべきと反論します。
勝海舟は昔の上流社会で尊重してきた痩せ我慢から目をそらしていると福沢諭吉は批判します。福沢諭吉は勝海舟が優秀な人物で、多くの人の命を救っていることは認めています。しかし勝海舟は当時枢密院顧問をしていたので、敵である明治政府に仕えて利益を貪っていると非難しています。それに対し勝海舟は、批評は人の自由といった内容の返書を出します。福沢諭吉は学者で、自分とは異なる立場の人だと分かっていたためです。福沢諭吉は徳川幕府ありきの理想を掲げており、勝海舟は100年先の日本を考えているため、同じ土俵に立って議論するつもりはなかったのでしょう。
その後も痩我慢の説に関する論争は起こりましたが、勝海舟が亡くなり福沢諭吉もこの世を去ったので、結論に至ることはありませんでした。
勝海舟が福沢諭吉と仲が悪かったエピソードでは、他にも勝海舟が船酔いで部屋から一歩を出られなかったことに福沢諭吉が怒ったというものもあります。勝海舟は船を使ってアメリカに行くなど船のイメージが強いですが、船酔いしやすかったと言われます。しかしアメリカのサンフランシスコの港に到着すると、船長としての面目を保つために堂々とした態度を取るなど、小吉の息子らしい行動をしています。