北条時宗は、1251年6月5日、第5代目執権北条時頼の子息として誕生しました。
北条時宗は、鎌倉時代の武将にして、鎌倉幕府第8代目執権として生きた人物です。ドラマや時代劇等で、現代においても、幾度となく映像化されているので、ご覧になられた方も多いのではないでしょうか。1284年4月20日に34歳の若さで他界するまで、様々な難所を潜り抜け、類まれなる才を振るったと伝わっています。今回はそんな北条時宗のエピソードを紐解いていきましょう。
まず、時代背景から見てみます。平氏を滅亡へと誘った一ノ谷の戦いで戦功をあげた源義経を弟に、執権一族として栄えた北条氏の娘政子を正室に持つ征夷大将軍 源頼朝によって鎌倉幕府がひらかれたのが1185年です。初めての武家政権の誕生です。
幕府誕生に向けて頼朝の側で尽力した人物が政子の父、執権・北条時政でした。1219年、3代将軍であった源実朝が暗殺されて以降、代わって実権を握ったのが執権である北条一族で、以降、北条氏が武家政権を束ねていくことになります。
時移り、今回の主役である北条時宗の父・時頼は、九条氏、三浦氏等の武家あるいは、北条分家等の間で起こった権力争いが盛んな時代に生まれ、宝治合戦や得宗政治(北条氏の嫡流一族による政治)を行った人物でした。北条時頼は大変、実力があり、また駆け引き上手な人物だったと言われています。
その後、時頼は赤斑疹に赤痢と流行り病に倒れ、1256年、北条分家の北条長時に6代目の執権職を渡したのですが、時頼の病は癒えて政務に復帰することになってしまいます。復帰後、時頼は積極的に政治に関わり、長時らに内密で得宗専制(北条氏の嫡流一族による専制)を築き、思いのままに権力を振るいました。
こうした中、時頼の子である北条時宗は逞しく生き、父時頼からの薫陶を受け、メキメキと実力をつけていき、わずか9歳で将軍に仕えその警備を取り仕切る幕府の小侍所に入所しました。本来、この別当(=長官)は1人制であり、入所時、既に北条実時という要人がその職に就いていましたが、「将来のリーダーとしての政治的感覚を養い身に着けさせる」という意向で初例の特別待遇で許可されたというエピソードがあります。
北条時宗は、10歳で有力御家人の安達義景の娘・堀内殿と結婚しました。そして、父・時頼の死後1261年、13歳の時には、第7代目執権北条政村の連署(執権の補佐役)に就任するという、エリートの道を歩んでいきます。
連署に就いた北条時宗は、父譲りの知力と手腕を持って早速本格的に政治に関わっていくようになります。15歳で、鎌倉幕府第6代目将軍、宗尊親王に謀反の疑いをかけ、将軍職から卸し、京都へ追放してしまいました。背景に執権・政村や同職の実時、正室堀内殿の兄・安達安盛との見事な連携プレーがあり、また、宗尊親王を中心とした反得宗派勢力の連結の芽を早くから摘む為だったと言います。北条時宗に先見の明があった事を示し、また、賢明で人望があった事が伺えるエピソードだと言えるでしょう。
こうした北条時宗の思慮深い行動によって得宗専制(北条氏の嫡流一族による専制)は更に深まっていきました。こうして、着実に実績を積んだ北条時宗は、いよいよ満を持して執権の職に就くことになります。連署にはそれまで執権の職に就いていた政村があたりました。