嘉納治五郎のエピソード
嘉納治五郎といえば、明治から昭和にかけて活躍した柔道家、教育者です。それまで「柔術」と呼ばれていた武術を整理・再編し、新たに「柔道」と名付けて普及に励みました。現在、嘉納治五郎が柔道の父と呼ばれていますが、嘉納治五郎は柔道だけではなく、日本のスポーツや教育分野そのものに大きな足跡を残した「日本体育の父」と呼ばれる人物なのです。そんな嘉納治五郎のエピソードを紹介していきましょう。
実は嘉納治五郎は幼少期から虚弱体質で、ケンカに負けてばかりのひ弱な子どもでした。東京大学に進学するほどのインテリだった嘉納でしたが、強くなって見返してやりたいと考え、柔術を学ぶことを思いつきます。しかし、当時は明治維新の直後。西洋的なものこそが正しく、日本古来の柔術は人気がないというご時世でした。やっとのことで柔術を教えてくれる師匠を見つけ、線の細いインテリなりに柔術を学びんでいき、やがて柔術が単なる武術ではなく、そこに人間を高める力があることに気がついていくのです。
嘉納治五郎は従来の柔術の様々な流派をまとめ、整理し、独自の理論を加えたものを柔道と名付けます。嘉納の興味は柔術にとどまらず、剣術や棒術、薙刀術といった武道についても理論づけて再編していきます。そして弟子たちによって、柔道は世界中に広まっていくのです。
嘉納治五郎の胸には母親から教えられた「人のために尽くせ」という言葉が刻み込まれていました。東京大学を卒業した嘉納は教師として教育者の第一歩を踏み出します。学習院で教えることになった嘉納は、封建的な身分意識が残っている風潮を目の当たりにし、打破していくのです。そして自らの理論で作り上げた柔道を授業に取り入れます。これは日本ではじめての試みでした。後に東京高等師範学校やその附属中学校の校長となりましたが、流れを汲む筑波大学には今なお嘉納治五郎の銅像が建てられています。柔道だけではなく、水泳、長距離走、テニスやサッカーといった様々なスポーツを教育に取り込んでいった嘉納治五郎は今日、日本体育の父とも呼ばれることになります。中国からの留学生も積極的に迎え入れ、同じようにスポーツを学ばせるなど、嘉納の活動は性別や国境を超えるものでした。
1896年、フランスのクーベルタン男爵により近代オリンピックが開始されます。「勝つことではなく、参加することにこそ意義がある」というオリンピックの精神を知った嘉納治五郎は、それが自らの哲学と合致するものであることに気づき、この思想を日本に広めることに取り組み始めます。活動が認められた嘉納は1909年にはアジアで初となる国際オリンピック委員に任命され、はじめて日本がオリンピックに参加した1912年のストックホルム大会には、自らも団長として参加しました。