しかしその後、日本は戦争へと向かっていきます。1931年には満州事変が勃発し、日本は国際的に孤立していきます。なんとかこの状況を変えなければならない。そう考えた嘉納治五郎は、オリンピックの東京開催を目指します。しかし当時、ヨーロッパから日本は遠すぎるとして、東京開催に難色を示す意見が大半を占めていました。しかし嘉納はこれを逆手に取ります。日本は1912年以来、選手団を毎回送り込んでいる。欧米の選手が日本に来ることは、それに比べれば大した苦労ではない。欧米で誕生したオリンピックが日本で開催されることで、オリンピックの文化はいよいよ世界的なものになるのだ、と。
そして嘉納治五郎は、オリンピックは日本で開催されるべきであり、誘致がかなわない場合は日本が独自でさらに大きい世界大会を開催すべきとの覚悟をIOC総会で発言しました。1936年、投票の結果、東京はヘルシンキを下して1940年のオリンピック開催権を獲得します。1938年、嘉納治五郎はエジプトで開かれたIOC総会から帰国の途中の船で77歳の生涯を閉じます。戦争へと向かう時代の流れには抗しきれず、日本は1940年大会開催権を返上することになりますが、嘉納の遺志は生き続けます。嘉納治五郎と親しく、1940年大会の東京開催を最後まで支持したアメリカのアベリー・ブランデージが1952年、IOC会長に就任し、再びオリンピックの日本開催を支持します。1959年、日本は1964年大会の開催権を獲得。日本はこの大会で、戦後の焼け野原からの復興を高らかに世界にアピールしました。
現在も嘉納治五郎を慕う人物は世界中に存在します。例えばロシア連邦大統領のウラジーミル・プーチンは柔道家としても有名ですが、著書に「柔道は単なるスポーツではなく哲学である」という言葉を著しているほか、自宅にある嘉納の像を毎朝拝んでいるといいます。
いよいよ2020年には東京で2回目の夏季オリンピックが開催されます。「コンパクトなオリンピック」を合言葉に誘致活動を行っての開催権獲得でしたが、実は1940年大会の誘致決定後、嘉納は「大会の規模を競うようでは弊害が生じる。東京大会は前のベルリン大会より規模を小さくしたい」と発言しています。死去後80年近くを経た今なお、嘉納治五郎の精神は世界中に影響を与え続けているのです。