徳川慶喜|偉人列伝

偉人列伝

徳川慶喜|偉人列伝

徳川慶喜のエピソード

徳川慶喜のエピソードと言えば、江戸時代最後の徳川第15代将軍としてだけでなく、やはり最初に出てくるのが1867年に行った「大政奉還」でしょう。

徳川慶喜は水戸藩主徳川斉昭の七男として生まれ、13代将軍家定の継嗣問題では14代将軍を徳川家茂と争って敗れてました。といっても、敗れてどこかに去ったわけではなく、将軍後見役として幕権の維持や、公武合体策などを進めるなど、主流派として活躍していました。

そして、14代将軍だった家茂が亡くなった後は、満を辞して15代将軍となり本格的に幕政改革に乗り出すことになります。

徳川家最後の将軍として有名な徳川慶喜は、実際にはスムーズに将軍後見役から将軍になったと思われていますが、実際にはそうではありません。

元々13代の継嗣問題で家茂と争ったという過去は有りますが、徳川慶喜自体は15代将軍となる事をかたくなに拒み続けました。そのため、実際に家茂が無くなってから徳川慶喜が将軍になるまで、将軍職が4か月程空位となっていました。

将軍職には就きたくない、そう言っていた徳川慶喜を説得していたのが、当時の老中で合った板倉勝静や小笠原長行などです。次期将軍として推薦し、説得を続け、さらに要請したりもしましたが、当初慶喜自体は徳川宗家すら相続する事を辞退していました。

ただ何度も要請を受けた後、徳川宗家だけは最初に相続する事を了承しました。とはいっても、まだその時点では将軍職に就く事は固辞しており、どうしても首を縦に振りませんでした。

どうして徳川慶喜が将軍になる事を拒んでいたか、その理由については諸説ありますが、その一つが将軍就任反対意見を抑える為、と言う事です。元々慶喜が将軍になる事に対しては、水戸藩の反対意見がありました。

水戸藩自体は徳川慶喜の出身藩なのですが、あっさりと15代将軍になることに対して反対する意見が多数出ていたのです。また水戸藩だけでなく、幕府内でも反対意見が出ており、幕臣の多くも慶喜が15代将軍になるという事に反対していました。

反対する意見があったとしても慶喜自体には将軍職に就く権利はあったのですが、すんなりと将軍になってしまうという事は、それだけ簡単に将軍になる事が出来るというイメージが反対派にも感じられてしまう可能性があります。それを避ける為に、老中等の推薦を得て将軍に就くことによって、将軍の権威を高めようと意図していたと考えられています。

こうして、老中等の度重なる要請によって将軍職に就いた慶喜は、朝廷とも連携を行って政治を行おうと考え、また改革派幕閣とも和解し、慶応の改革を推進する事になります。

将軍になった徳川慶喜は・・・