新井白石のエピソード
新井白石は、江戸時代中期の人物で、旗本であり政治家、儒学者でもありました。今回は新井白石のエピソードをお伝えしましょう。
新井白石は、1657年3月24日(明暦3年2月10日)に久留里(現:千葉県君津市)藩士の子として、江戸に生まれます。独学で学問を学んでいた新井白石は、貞享3年(1686年)に朱子学者である木下順庵に入門し、門下生となりました。通常であれば、入門するためには束脩(そくしゅう=入学金)が掛かりますが、新井白石に目をかけていた順庵は、白石の束脩においては免除していたと言われています。
新井白石は、1693年(元禄6年)、白石が37歳の時に順庵の推薦により、甲府藩主である甲府徳川家の仕官になり、当時の藩主である徳川綱豊に仕えました。
この時代の将軍は徳川綱吉でしたが、多額のお金を使って寺社を建立して祈祷をし、また生類憐みの令(綱吉の跡継ぎができないことを憂い、母である桂昌院が発布)を発令しましたが、結局世継ぎに恵まれることがありませんでした。そのため、将軍世子として新井白石の主君であった綱豊が江戸城西丸に入れられました。
その後、1710年(宝永6年)には、綱豊は家宣と名前を改めて将軍の座に就き、同時に白石にその職務の大半を代行させたのです。すなわち、新井白石は将軍徳川家宣の側近となったのです。
家宣の側近となった新井白石は、「正徳の治」と呼ばれる政治改革を行いました。「正徳の治」とは、新井白石の儒学思想に基づき、文治主義の様々な政策を推進する改革で、8代将軍徳川吉宗の行った享保の改革でも一部継続されました。
儒学思想とは、孔子を始祖とする思想や信仰のことで、儒教の経典は「易」・「書」・「詩」・「礼」・「楽」・「春秋」の六経から成り立っています。この思想をもとに、文治政治が行われました。
新井白石の文治政治は、第一に天皇家の権威を借りることとし、第二に宝永の武家諸法度を発布して、徳川家の家紋を入れた制服を採用するなど、衣服の改革を行いました。また、第三には朝鮮通信使(室町時代から江戸時代にかけて、李氏朝鮮から日本へと派遣されていた外交使節団)への待遇を簡素化して、朝鮮から日本へと送られる国書を、「日本国大君殿下」から「国王」へと修正させました。
新井白石が主宰した正徳の治は、前の将軍である徳川綱吉の政策とは全く逆の政策となっていました。
それを象徴するのが、1つめである物価を持続的に下落させていくデフレーション施策「正徳の貨幣改鋳」です。綱吉の時代に物価が急激に上昇したのは、当時の勘定奉行であった荻原重秀の行った貨幣改鋳にあると考え、新井白石は貨幣の価値を慶長時代にまで戻すことを決めました。これが正徳の貨幣改鋳です。この施策により貨幣の発行量が減少し、景気を冷え込ませ物価の上昇を食い止めました。