2つめとしては、海舶互市新例(長崎新令)です。これは、国際貿易額を制限するための法令で、貿易船には幕府が発行する許可証(新牌)を持参することを義務付け、海外との貿易枠を制限しました。長崎貿易の決済には金や銀が利用されていましたが、新井白石はこれが原因で、国内の通貨量のうち金貨の4分の1と銀貨の4分の3が、元禄までに海外へ流出してしまったと考えました。そしてこの状況を改善すべく海舶互市新例を発令したのです。
新井白石は、将軍徳川家宣の側近としてその腕力をふるいましたが、その身分はわずか500石の無役の旗本であったため、城の御用部屋に入ることができませんでした。そこで、家宣からの相談などを側用人である間部が白石まで届け、それに回答するという形式をとっていたとされています。幕府の閣僚でもなければ側用人でもない一介の旗本が、将軍の側近として影の運営者となり幕府を運営したのは、後にも先にも新井白石しかいませんでした。
家宣が死没した後、その四男である家継が7代将軍に就きましたが、この代でも側用人の間部と共に新井白石は政権を運営することになりました。しかしながら、家継が将軍として就任したのは3歳の頃であり、新井白石であっても幼君を守り立てて幕府を運営していくことは非常に困難を極めたとされています。
その後、譜代大名らからの抵抗が徐々に激しさを増す中、幼くして将軍に就任した家継が逝去したことを受け、次期将軍に徳川吉宗が就任すると、新井白石は失脚に追い込まれ公的な政治運営から身を引くことになりました。
政局から引退した新井白石は、それまで利用していた江戸城の中にある御用控えの部屋や、神田小川町(現:千代田区)の屋敷も没収され、1717年(享保2年)に幕府より与えられた千駄ヶ谷の土地に隠棲しました。新井白石が隠居していた場所は、現在の渋谷区千駄ヶ谷6-1-1ですが、この場所には記念案内板が設置されています。
新井白石の晩年は、待遇の良くない中でも著作活動にいそしみ、『采覧異言』を完成させました。しかし、この著書の完成からわずか5日~6日後の1725年(享保10年)5月19日に、享年69歳でこの世を去ったと言われています。