木崎原の戦い 島津軍の勝因
木崎原の戦いは、1572年6月14日に南九州で起きた島津氏と伊東氏の間の戦いです。1/10の兵力の島津軍が勝ったことから、“九州の桶狭間”とも言われる戦いです。
そこで今回は、この木崎原の戦いにおける島津軍の勝因について考えてみることにします。
木崎原の戦い
木崎原の戦いでは、約3000名の兵力を擁して侵攻してきた伊東軍に対して、わずか300名の島津軍が伊東軍を巧妙におびき出し、伏兵を有効に使った戦術で応戦し、総大将であった伊東祐安以下、主だった武将を打ち取りました。
勝ったとはいえ、島津軍も、この木崎原の戦いで兵力の八割を失うという大打撃をこうむっています。普通の戦闘では兵の三割も失えば兵は統率を失い、戦闘は出来なくなり敗走するしかないと言われています。八割を失ったということは、通常なら惨敗となる戦いですが、最後まで統制の取れた戦いをし、伊東軍の総大将を打ち取り敗走させたのですから、木崎原の戦いは島津氏の勝利と言ってよいでしょう。
実際、木崎原の戦いの後、島津氏は勢力を大きく拡大したのに対して、伊東氏は衰退していきます。
木崎原の戦いの島津軍の勝因とは
木崎原の戦いでの島津軍の勝因について考えてみると、島津軍の鉄のような結束と島津義弘の巧妙な戦術が挙げられます。
木崎原の戦いでは兵の大部分を失ってすら、兵は士気を失うことなく統率されていたことは前述した通りですが、この鉄壁の統率力は島津軍の伝統のようで、後の関ヶ原での“薩摩の退き口”といわれる撤退戦でも見られることになります。
関ヶ原の戦いでは、西軍の敗北が確定して、西軍の兵がどんどんと討たれて混乱している中で、薩摩の島津兵だけは整然と統制されており、東軍本隊の目の前を疾走して退却するという離れ業を演じることとなりました。このとき、島津の兵は“すてがまり”という、特攻戦術で大将である島津義弘を守りながら撤退を成し遂げています。
そのようなことが出来る島津軍の鉄の結束が、この木崎原の戦いでも発揮されたわけですが、全軍が崩壊寸前の危機的な状況でも戦闘できる兵を伝統的に育成してきたということが、木崎原の戦いでの島津軍の勝因となったと言えるでしょう。
また、自軍が戦いやすい場所に戦場を設定し、伊東軍をおびき出した島津義弘の戦術も勝因の一つです。島津軍は、圧倒的少数の兵力にもかかわらず、部隊を4つに割き、後背と側面、退却予定の場所に伏兵を配置しました。
これは島津氏のお家芸の「釣り野伏せ」と言われる戦法で、釣りに使う囮のように、正面の本隊がわざと敗走することで、敵の追い討ちを誘って伏兵が待ち構える場所におびき出し、混乱した敵を包囲殲滅する戦法になります。
木崎原の戦いで行われた決戦では、数に勝る伊東軍が本隊同士の戦いにおいて島津義弘を討ち取る手前までいったようですが、一歩及ばず、後背・側面から奇襲を受け混乱に陥り、退却中に伏兵により総大将の伊東祐安が討たれ、一気に戦線が崩壊してしまいました。
伊東軍も戦国最強とも言われる島津軍に壊滅的な損害を与えているわけですから、決して弱い軍ではありませんでした。強兵であった伊東軍の十倍する兵力に対して、真っ向から決戦を挑み勝利した木崎原の戦いでの島津義弘の戦いぶりは、本家の「桶狭間の戦い」以上に「小が大を制した」事例かもしれません。
“少数精鋭”は大半の場合、圧倒的に大きな組織に敗れてしまいますが、一人一人でも戦える強固な組織を作り鍛え上げることで勝つことができるということを、木崎原の戦いは示唆してくれています。