桂太郎|偉人列伝

偉人列伝

桂太郎|偉人列伝

桂太郎のエピソード

歴史に名を残す偉人たちには、様々なエピソードがつきものですが、そうした側面の部分にこそ、その人の人となりが現れているものではないでしょうか。偉人たちにまつわるエピソードを見ていると、新しい発見があったり、意外性に驚きを感じるものです。
日本の第11・13・15代内閣総理大臣であった桂太郎のエピソードには、一体どんなものがあるでしょうか。

桂太郎は、弘化4年11月28日、現在の山口県萩市である、長門国萩町に長州藩士桂與一右衛門の嫡男として生まれました。

幼少時には阿武郡川島村へと移り住み、その後選鋒隊に編入されるなど、家柄の良さを感じさせる経歴を持っています。元治の時代に入ると、世子毛利元徳の小姓役となり、第2次長州征伐では石州方面で戦闘に参加したといわれています。その後も戊辰戦争で参謀添役や第二大隊司令に抜擢されるなど、その人生は激しくも華々しいものだったようです。秋田戦争でも撤退戦を担い、その功績によって賞典禄250石を受けています。

明治の時代に入ると、桂太郎はドイツに留学しましたが、費用が苦しく、およそ3年で中途帰国ということになりました。当時、海外に留学するためには、非常に多くの費用が必要であり、家柄がよく実力もあった桂太郎であっても、楽なものでは無かったようです。

帰国してから桂太郎は、正式に陸軍へと入り、大尉に任命されました。当時の彼の家柄や、秋田戦争での軍功などを考慮すると、この地位は低いものだったといわれています。この時、陸軍の大物であった山県有朋は、桂太郎に低すぎる階級について、詫びたといわれています。しかし、それに対して桂太郎は、秩序と規律は軍の根幹ですと述べ、さらに「大尉ではなく少尉の方が陸軍の為には良かった」と発言したそうです。非常に真面目で、規律を重んじる一面を、感じさせるエピソードだといえるでしょう。

山県有朋は陸軍の大物であると同時に、政界においても大きな存在感をもつ人物だったといわれています。桂太郎とは非常に交友が深く、彼の大きな後ろ盾だった存在です。出世街道を登り詰めることができたその背景には、この山県有朋の影響力も、大きく関係していたのではないでしょうか。

1898年には第3次伊藤博文内閣の陸軍大臣、そして1901年にはついに、総理大臣の椅子に座ることになった桂太郎ですが、それは波乱に満ちた日々の始まりだったともいわれています。日英同盟の締結を成功させた後、日露戦争を遂行するなど、当時の日本は非常に大きな、動きの中にいました。大国ロシアを打ち破るなど、当時の内閣と軍の働きは、目を見張るものがあったことでしょう。

桂太郎のニックネームは・・・