桶狭間の戦い|織田信長の勝因

桶狭間の戦い|勝因・敗因 戦いの勝因・敗因

桶狭間の戦い|織田信長の勝因

桶狭間の戦い 織田信長の勝因

桶狭間の戦いは、1560年6月12日に行われた今川義元軍と織田信長軍の戦いです。

桶狭間の戦いに動員した兵力は、諸説あるものの、今川義元軍が 35000人前後、一方、迎え撃った織田信長軍が 4000人前後と言われています。 そして、約10倍の敵を破った戦いとして桶狭間の戦いは現代でも語り継がれていますが、桶狭間の戦いでの織田信長の勝因とは何だったのでしょうか?

1560年5月、駿河・遠江(現在の静岡県)を本拠地とする今川義元が、京を目指して突如進軍を始めました。この時の今川軍の動員兵力は 35000人前後だったと言われています。

その今川軍が上京する進路にあった尾張国を治めていたのが、後に有名となる織田信長です。

桶狭間の戦いについては諸説色々ありますが、ここからは、従来からの通説に基づいて見てみることにしましょう。

織田軍の兵力は 4000人程度で戦力的に圧倒的不利だった為、軍議で織田軍の重臣たちは籠城を主張しますが、織田信長は野戦で迎撃することを決めます。まさに常識離れした決断と言ってよいでしょう。

ただ、無謀な戦いというわけではなく、織田信長は斥候を放ち、今川軍の動きを逐次把握していたようです。

丸根砦・鷲津砦への今川軍攻撃の報を聞き、織田信長は、

人間五十年下天のうちをくらぶれば
夢まぼろしの如くなり
ひとたび生を享け滅せぬ者のあるべきか

有名な「敦盛」を舞った後、清洲城より出陣し、熱田神宮で戦勝祈願を行います。時は大気の変動が激しい梅雨時期。この熱田神宮で、信長は天候が崩れそうな気配を察し、地元の領民の意見から豪雨になるという情報を得ていたようです。

その後、織田信長は精鋭 2000人の兵を率いて、桶狭間方面へ向かう今川軍の本隊との衝突を避けつつ進軍します。その後、今川義元が田楽狭間に本陣を置き、休息をとっているとの情報を得て、豪雨に乗じて今川義元の本隊(約 5000人)に奇襲を掛けました。

休息中かつ豪雨の中、敵も味方もわからない状態の今川軍に対し、決死の覚悟を持ち、万全の体勢で奇襲攻撃を掛けた織田信長軍は、狙いを今川義元を絞り、ついに織田軍配下の毛利新助が今川義元を打ち取り、戦意を喪失した今川軍は敗退します。

以上が桶狭間の戦いの概要ですが、桶狭間の戦いにおける織田信長の勝因をまとめてみると、

  • 今川軍の行動を逐次把握していた
  • 籠城しなかった
  • 分散した今川軍の本隊に対し兵力を集中することで、彼我の戦力差を最小限に食い止めた
  • 戦いの目標を今川義元の首に絞った
  • 悪天候を生かして奇襲を掛けた

といったところになるでしょう。

桶狭間の戦いは、大軍(今川軍:35000人)を寡兵(織田軍:4000人)で破った戦いですが、実質的な戦闘は「休息中の 5000人」対「満を辞して奇襲を掛ける 2000人」といった状況でした。

こう見ると、今川軍の動きや天候など現在の情報を逐次把握した上で、桶狭間の戦いに挑んだ織田信長は勝つべくして勝ったと言えるのかもしれません。

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