士道忘却事件とは、肥後藩江戸留守居役 吉田平之助、都築四郎、横井小楠の3人が吉田平之助邸にて酒宴を催している最中に、勤皇党の刺客の襲撃を受けます。本来であれば、横井小楠も応戦しなくてはなりませんが、なんと刀を床の間に忘れてきたため、その場を逃走。越前藩邸から刀を借りて、吉田邸に引き返すも、時すでに遅く、二人の同志はこと切れていました。
二人の同志を見捨てて、横井小楠ひとりだけが生き延びるのは「武士の道にあるまじき行為」として横井小楠は藩庁より切腹を命じられるところ、松平春嶽のとりなしによって事なきを得ます。しかしのちに、肥後に帰藩してから、士席・知行召し上げの処分を受け、沼山津の四時軒で蟄居生活を送ることになるのです。
これほどまでに、酒で失敗を繰り返している横井小楠ですが、酒を断つということはなかったといいます。ある時、長岡監物に酒を控えるように、と忠告されたときにも「3杯までは頂きますが、それ以上は頂かないので安心してください。」と返事をしたと言います。
また、松平春嶽に横井小楠の人となりを尋ねられ、松平春嶽が「横井小楠は、思想的、政治的には優れた人物だが、秘密を漏らしてしまうことと酒での失敗が多すぎる。」と語ったときにも、「自身が手に入れた情報を漏らして何が悪い。知りえた情報はできるだけ多くのひとに知らせるべきだ。」と横井小楠はうそぶいたそうです。
その後、維新政府の参与に任ぜられ、やっと表舞台に登場した横井小楠ですが、明治2年1月5日、京都で尊皇攘夷派の刺客に襲われ亡くなりました。横井小楠は、生前、自分が殺されることがあっても、決して仇討ちをしてはいけない、と言い残していました。そのため、弟子も甥も仇を討つことはできませんでした。享年60歳、これからというときの出来事でした。
横井小楠が士道忘却事件後に蟄居生活を送った沼山津の四時軒には、当時の様子がそのまま保存されています。隣には横井小楠記念館も建てられており、ここには横井小楠が襲われた際に防戦した短刀や、当時着ていた血染めの羽織をはじめ貴重な資料が多数展示されています。