水野忠邦|偉人列伝

偉人列伝

水野忠邦|偉人列伝

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「天保の改革」は、水野忠邦が行った改革で、大御所時代の贅沢な雰囲気を改善し、出来るだけ質素倹約を勧める内容の物でした。

実際には衣食住に関するぜいたく品をチェックする事を行い、その結果庶民の娯楽等も奪っていく事になります。

さらに天保の大飢饉で被害を受けた農村を復興する為に農民の出稼ぎを監視したり、江戸に住んでいる農民を村に返すという事も行いました。これらは寛政の改革の時の帰農令と同じ様な内容の事でしたが、実際にはイメージ通りに進める事が出来ませんでした。

さらに物価が高騰してしまう事を防ぐ為に株仲間の解散を命じて、商品の流れを自由にして物価を下げようとします。しかし今までとは商品の流れ方も変わって行ってしまったため、結果的に経済の混乱を招いてしまいました。

娯楽が無くなり、さらに経済が混乱し、と言う事で結果的には「天保の改革」を行った事によってより不景気が悪化して行きました。また大名や旗本には土地を幕府に差し出すようにと上知令を行いましたが、それに対しても反対する大名たちも出てきた為に、結果的に水野忠邦は様々な人から反発を受ける事になりました。

そしてその結果、水野忠邦は失脚をするという事になりました。

「天保の改革」自体への反発で失脚する事になってしまいましたが、その後、水野忠邦は再び老中に返り咲くことになります。しかし、その時の水野忠邦は老中になった頃の様な力があったわけではなかった為、結果的には老中になっても短期間で辞任することになり、表舞台から消えていきます。

水野忠邦にはやる気はあり、さらに能力もあったのですが、結果的には周りの意見に耳を貸す事が少なかった、と言うのが改革が失敗してしまった要因の一つと言われています。