石田三成は豊臣家への忠誠を誓い、豊臣秀頼をトップに据えた政権運営に尽力しようとしましたが、そうはさせまいと徳川家康をはじめ、石田三成に反感を抱いた家臣などが手を結び始め、それに怒った石田三成が徳川家康を処分しようと動くなどあわただしい動きを見せました。そのようなことがしばらく続き、いよいよ関ヶ原の戦いを迎えます。
実質的に西軍の総大将だった石田三成でしたが、三成には武将たちから人望がなく、毛利輝元を総大将にした方がいいという諫言を受けて、毛利輝元が西軍の総大将を務めることになりました。当初は、西軍の優勢が伝えられていましたが、戦意の低い部隊が多かったことや武将の裏切りにもあって、しばらくして総崩れとなり敗走を余儀なくされ、石田三成は捕縛されてしまいます。
石田三成の居城だった佐和山城は三成の父や兄の奮闘もむなしく落城し、石田家の多くが壮絶な死を遂げることになりました。まもなく斬首されることになる石田三成のエピソードには、斬首される直前まで諦めない姿勢が垣間見ることができます。
徳川家康から小袖を与えられた石田三成は、送り主は江戸の上様からだという警護からの言葉に反発、上様は秀頼公しかいないと答え、小袖を受け取らなかったり、水が欲しいと懇願した石田三成に対し、水はないが柿はあると警護が返答を行うと、三成は柿は痰の毒であると言って拒み、首を切られるのに毒断ちをして何になるといった警護に対し、大志を持つものは最期の時まで命を惜しむものだと答えたと言われています。
石田三成の死後、あまりいい評価を受けず、戦国武将の人気としても高いものではありませんでした。しかし、石田三成なしでは豊臣秀吉の天下統一がありえなかったことや江戸時代に通ずる制度設計に貢献するなど、石田三成の功績が江戸時代の安定につながった面が評価されてきており、改めて現代になって石田三成が再評価されつつあります。
そして、最期まで豊臣家に忠誠を貫き、己の正しさを堅持し続ける石田三成の姿勢に多くの人が感銘を受けているのです。