高杉晋作|偉人列伝

偉人列伝

高杉晋作|偉人列伝幕末の英雄として有名な人物の1人に高杉晋作がいます。その剣の腕は素晴らしく、19歳にしてすでに免許皆伝の腕前であったといわれています。生まれは長門国萩で、これは現在の山口県萩市にあたります。長州藩士であった父の高杉小忠太と妻みちとの間に長男として誕生しました。そんな高杉晋作のエピソードについていくつかご紹介しましょう。

・三枚橋の中の橋を堂々と渡る
師匠である松陰の改葬をする際に高杉晋作は馬にまたがったまま、三枚橋の中の橋を渡ろうとしました。中の橋は将軍専用の橋であり、通常それ以外の人達は左右にある橋を渡るというのが決まりでした。もちろん橋の番人は高杉晋作をとめようとしますが、彼は「殉難した攘夷志士の遺骨を運ぶのだ。咎められるいわれはない」ときっぱりと言い、番人が怯んでいる間に堂々と中の橋を渡り終えたといわれています。

・留学経験
高杉晋作は1861年に海軍の修練のために船に乗り込み、江戸へと渡っていますが、剣術や遊学などをした後の1862年、長崎から中国の上海へ渡り、当時欧米の植民地状態になっていた清の様子や太平天国の乱を見聞きし、これに大きく影響を受けたといわれています。

・英国公使館焼き討ち事件
上海から帰国した1862年頃、長州藩はそれまでの「公武合体」という考えから「即今攘夷」へと考えを転換していました。これは日本に大きな影響を及ぼすことになる諸外国を排除しようというものです。若き高杉晋作はすぐにその行動へとうつるのです。最初は横浜にいる他の藩の藩士達と共に外国人の暗殺計画をたてます。しかしこれは失敗に終わりました。

そして高杉晋作は長州藩において尊皇攘夷運動組織を立ち上げ、当時品川に建築中の英国公使館に放火し、長州藩と幕府の戦争勃発をもくろみます。この放火は成功し、英国公使館は焼け落ちてしまいましたが、幕府自体がこのことを大きな問題としなかったために本来の目的である幕府との戦争勃発は成功しなかったのでした。

・坊主に転身
1863年、倒幕に向けて動く時であると進言した高杉晋作でしたが、その意見は退けられ、「10年後まで待つべきである」と言われたことをきっかけに休暇願を提出し、なんと坊主になってしまいました。そして師匠であった亡き吉田松陰の生誕地である松本村のそばで草庵を結んだのです。そして名前を東行と名乗るようになったのです。ちなみにこの東行という名前は高杉晋作が尊敬する歌人の西行にちなんでつけたといわれています。

・奇兵隊の結成
高杉晋作が隠遁生活を始めてからわずか2ヶ月後、長州藩に呼び出されて関門海峡の防衛に関してのアドバイスを求められます。それにより、有名な「奇兵隊」が結成されました。奇兵隊は下関の防衛にあたります。奇兵隊の隊員を募集する際に高杉晋作は身分に関係なく募集をしました。「草莽崛起」という松陰の教えを取り入れたのです。高杉晋作は奇兵隊の初代総督に就任しました。

その後、この奇兵隊は大活躍することになるのですが、総督として活動したのはわずか3ヶ月ほどでした。その理由は、すでにあった藩の武士のみで成り立っている正規の軍と衝突が繰り返され、奇兵隊の隊員が正規軍の先鋒隊宿舎に押し入り、隊士を殺害してしまったためでした。

さらに続く高杉晋作のエピソードとは・・・