1928年に昭和3年、義弟、久原房之助の作って経営不振に陥った久原工業も継承し「日本産業」という会社名にし、その後もたくさんの企業との合併や吸収を繰り返し日産コンツェルンを築き上げました。ちなみに日産コンツェルンの傘下には、日立製作所、日本鉱業、日産自動車、日本油脂、日本冷蔵などがあります。1933年には現在のいすゞ自動車である自動車工業株式会社からダットサンの製造権を譲り受けてその製造のために自動車製造株式会社を設立し、その後の日産自動車となったのです。その時、鮎川義介は53歳。
その翌年の1937年には中国や満州開発を企画していた陸軍や岸信介のたちの勧めで本社を満州に写して満州重工業開発株式会社と改名し、その総裁に就任しましたが、経営方針の違いで陸軍と対立したため1942年に総裁を辞職しました。帰国後は東条英機の内閣顧問となりA級戦犯となって逮捕をされたのですが、釈放後は参議院議員を務めました。
このように鮎川義介は貧しい暮らしをしていましたが、大叔父の井上馨やその姉の祖母の力や励ましをもらいながら承久の学校を出t、エンジニアの道に進みましたが、職人から始めようと見習いを経験したり様々な子会社を見学しに入ったり、アメリカの会社で働いて工業や産業について自らの体をもって追及しました。大学を卒業後、大手の三井に入社をすることが決まっていたにもかかわらず見習いから始めるために他の会社には行ったのには、実は幼いころの義介のエピソードがあるのです。
鮎川義介は12歳、3歳のころ家族とともに洗礼を受け「フランセスコ・ザベリヨ」という洗礼名も授かり、日曜ミサに通い続けていました。そして、そこで出会ったフランス人の宣教師、ビリヨン神父から鮎川義介は大きな影響を受けたのです。神父は、もともとナポレオンの側近という名門出身であるにもかかわらず、簡素な生活をしながらも思想は高くという「低処高思」を貫いた人でした。そのビリヨン神父の生き方に鮎川義介は影響を受け、恵まれた環境に甘んじることなく、確固たる信念と行動力で「重工業の王」と呼ばれる自分の道を切り開いていきました。
そして、鮎川義介のこのような生き方は「ギスケイズム」とも言われ、「元来、生物だけが意識を持っていると思うのは人間の錯覚で、それを善用できるのは、愛のつながり、以外にない」という言葉を残しています。