ゲティスバーグの戦い 南軍の敗因
ゲティスバーグの戦いとは、1836年7月1日から7月3日にかけて、現在のアメリカ合衆国ペンシルベニア州アダムズ郡近郊のゲティスバーグで行われた南北戦争の戦いの一つです。
今回は、ゲティスバーグの戦いにおける南軍の敗因について見てみましょう。
まず、南北戦争とは、アメリカ合衆国(北軍)とアメリカ連合国(南軍)の間で勃発した戦いで、前者は奴隷制廃止を狙う北部23州、後者は奴隷制存続を訴える南部11州で構成されていました。
それぞれの総司令官は北軍側がジョージ・ミード、南軍側はロバート・E・リーで、ゲティスバーグの戦いに至るまで、北軍は劣勢にありました。北軍は、特にチャンセラーズヴィルの戦いにおいて南軍に敗北を喫したことによって、ボルティモアやフィラデルフィアを失う可能性すらあったのです。
全体的には南軍優位の中で起こったゲティスバーグの戦いでしたが、なぜ南軍は敗れたのか、南軍の敗因とは一体何だったのかについて時系列を追って紹介していくことにします。
戦いの舞台となったゲティスバーグは鉄道や幹線道路が集まる交通の要衝で、この地を押さえる重要性は北軍・南軍共に理解していました。ゲティスバーグ自体は当時北軍の勢力下にありましたが、南北戦争を押し気味に進めてきた南軍が進出を図っていました。
そんな中、7月1日の午前5時過ぎに起きた南軍の歩兵と北軍の騎兵との小競り合いが引き金になり、大規模な戦闘な戦闘になり、ゲティスバーグの戦いが起こります。
7月1日の時点では南軍は兵力的には優っており、北軍側の第一軍団司令官であるジョン・F・レイノルズ将軍を、砲撃により戦死に追い込むことにも成功し、午後になると防衛ラインの突破に至りました。
しかし、ここから北軍が力を盛り返してきます。南軍の最大の敗北の原因は、この北軍の勢いを取り返すことにつながった、北軍のウィンフィールド・スコット・ハンコック将軍にあると言えるでしょう。
北軍は、防衛戦闘に優れているハンコック将軍に5つの主要な防衛線(カルプス・ヒル/セミタリー・ヒル/セミタリー・リッジ/ラウンド・トップ/リトル・ラウンド・トップ)を築くことを許してしまいます。
この時点で北軍のミード司令官は現場に到着しておらず、一方で南軍のリー司令官はすでに現場に到着していました。しかし、リー司令官はこの好機を生かせず、結局、北軍の防御線の構築を阻止することができませんでした。リー司令官は、防衛線が完成する前に叩くよう配下のリチャード・イーウェル将軍に命令を出したのですが、イーウェル将軍は攻撃を仕掛けなかったのです。
これはリー司令官の命令が曖昧であったこと、それからイーウェル将軍が南軍の損害を見誤ったことが原因です。
そして、序盤は戦いを優位に進めながら、みすみす北軍に防衛線を築かせてしまったことが、その後の勝敗に大きな影響を与えてきます。そして、7月1日の夜、北軍のミード司令官がゲティスバーグの戦場にようやく到着します。
2日目(7月2日)に入ると、南軍に勢力を盛り返すチャンスが生まれます。北軍のダニエル・シックルズ将軍は、セミタリー・リッジ以南の守備隊を最前線に移動させる愚策を採り、これによって手薄となったリトル・ラウンド・トップ防衛線を陥落させる可能性が出てきたのです。
リトル・ラウンド・トップは南軍の猛攻撃を受けましたが、北軍のウォーレン将軍とミード司令官の好判断により、南軍はリトル・ラウンド・トップの突破はなりませんでした。
そしてゲティスバーグの戦いは3日目を迎え、南軍は何度もこの防衛線突破を図りますが、北軍の総司令官ミード将軍の巧みな指揮と、従来よりも射程が長く、威力も高いライフル銃の効果によって、南軍の攻撃は食い止められ、結局、南軍は退却を余儀なくされます。
そして、軍事的な補給拠点であったゲティスバーグで敗退した南軍は、南北戦争で次第に劣勢に立たされていくことになります。
このように見ていくと、戦力的には拮抗していた北軍と南軍の明暗を分けた最大の要因は、ライフル銃が登場する中、本格的にライフル銃が使用された防御陣を従来の歩兵や騎兵の突撃戦で力任せに攻略しようとして多くの犠牲を生んだ、南軍指揮官の戦術の失敗によるものと言えるでしょう。