三方ヶ原の戦い 武田信玄の勝因
三方ヶ原の戦いとは、1573年1月25日に、現在の静岡県浜松市北区三方原町(旧遠江国敷知郡三方ヶ原)で起きた、徳川家康・織田信長連合軍と武田信玄の間に勃発した戦いです。
三方ヶ原の戦いは室町幕府第15代将軍である足利義昭の出した織田信長討伐令(第二次信長包囲網)に武田信玄が応えて起こったとされています。これにより武田軍は遠江国や三河国、美濃国への侵攻を始めましたが、この三方ヶ原の戦いにおいて、武田信玄は、徳川・織田の連合軍に対して圧勝することになります。
それでは、三方ヶ原の戦いにおける武田信玄の勝因はどこにあったのでしょうか。
武田信玄の勝因にはいくつか理由がありますが、まずは動員した兵力の差が挙げられます。三方ヶ原の戦いに際しては、総勢 27000人の武田軍の軍勢に対し、迎え撃つ徳川軍は最大でも 15000人程度しか用意できませんでした。
古来より多くの戦いがありましたが、ごくわずかな例外を除き、兵力が上回る方が勝利を収めていますので、この動員可能な兵力の差は、三方ヶ原の戦いにおける武田信玄の勝因で最も大きな要素だったと言えます。
さらに、国境を接する北条氏との間に「甲相同盟」を復活させ、自国が侵略される危険性を排除できていたことで、守備隊に兵力を割く必要がなく、持てる最大兵力で侵攻できたことも勝因の一つです。
武田軍は、武田信玄の率いる本隊 22000人が遠江国へ侵攻する一方で、別動隊の山県昌景 5000人が信濃国から三河国へ攻め入っていたため、徳川軍は二正面作戦を余儀なくされ、武田信玄の本隊と相対するのに徳川家康が用意できたのは、わずかに 8000人程度しかなかったとされています。
これでは戦いにならないと考えた徳川家康は、盟友の織田信長に援軍を要請しましたが、織田軍も足利義昭が出した討伐令により近畿地方の他の勢力に忙殺されていたため、思うような援軍は受けられず、三方ヶ原の戦いを迎えることになります。
兵力に大きな差があった武田信玄軍と徳川家康軍の間で、その勢いの差は色濃く現れていました。通常であれば、小さな城であっても陥落させるのには1ヶ月を要するとされていますが、兵力と勢いに任せた侵攻により、武田信玄は平均三日という、驚異的なスピードで攻め入ってきました。
徳川家康にとって、武田信玄軍の侵攻スピードの速さは大きな誤算でしたが、なんとか三方ヶ原の戦いまでに、織田信長の援軍(この援軍の兵力については諸説ありますが、戦場に参加したのは 5000人前後であったと思われます)が到着したものの、その援軍を合わせても、武田信玄が率いる本隊との兵力に比べて不利な状況は変わりませんでした。
徳川家康としては、浜松城に籠城して時間を稼ぐのが最善の策だったと思われますが、そうさせないように武田信玄も策を講じます。武田軍の本隊が浜松城を素通りして、その先にある堀江城を目指しているかのように徳川家康を欺いたのです。
そして、武田信玄の本隊を背後から襲えば勝機が見えると考えた徳川家康は、武田信玄の策に見事に嵌って少数の兵力で野戦を挑み、自らは討ち死に寸前にまで追い詰められ、わずか2時間ほどの戦いで多くの武将や兵士を失う大敗を喫してしまったのです。
【三方ヶ原の戦い 布陣図】
以上が三方ヶ原の戦いの概要ですが、三方ヶ原の戦いにおける武田信玄の勝因をまとめてみると、
- 徳川軍を上回る兵力を動員した
- 自らは後背の憂いがなく、織田・徳川軍は周囲を敵に囲まれた最良のタイミングで攻め込んだ
- 徳川家康の予測を超えるスピードで進軍した
- 籠城を考えていた徳川軍に対し、隙を見せて野戦に引きずり出した
などが挙げられます。
こう見ると、三方ヶ原の戦いでの武田信玄の勝利は、勝つべくして勝った戦いだったと言えるでしょう。