関ヶ原の戦い|東軍の勝因

関ヶ原の戦い|勝因・敗因

関ヶ原の戦い|東軍の勝因

関ヶ原の戦い 東軍の勝因

関ヶ原の戦いとは、1600年10月21日に現在の岐阜県関ヶ原町で行われた日本を二分した天下分け目の合戦です。

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関ヶ原の戦いでは、東軍 90,000人と西軍 80,000人が激突し、徳川家康率いる東軍が勝利しました。

今回は、この関ヶ原の戦いにおける東軍の勝因について考えてみることにします。

関ヶ原の戦いは、豊臣秀吉の死から約2年後に起きましたが、豊臣秀吉の死の翌年、五大老の一人 前田利家がこの世を去ったあたりから、すでに綱引きが始まっていたのかもしれません。

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1599年に入ると、豊臣家恩顧の武将たちの間の亀裂(福島正則や加藤清正ら武将と石田三成や小西行長らの文治派)を利用し、積極的な切り崩しを行なっていきます。

反文治派の急先鋒であった福島正則、加藤清正、池田輝政、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、加藤嘉明、蜂須賀家政、藤堂高虎らを中心に、石田三成に対する包囲網が作られていく中、徳川家康は、五大老の一人であった会津の上杉景勝征伐の兵を起こし、空白となった畿内で石田三成の挙兵を誘うことになります。

徳川家康の老練な罠に乗った石田三成は、西国の雄 毛利輝元を総大将に据え、1600年8月25日、徳川家康への宣戦布告となる書状を諸国の大名に送付しましたが、豊臣側の三奉行は徳川家康に鎮圧の要請を行い、情報は筒抜けの状態でした。

上杉討伐の途上にあった徳川家康ですが、9月1日に石田三成挙兵の報を受け、進軍を取り止め、引き返して雌雄を決する決断をします。

途中、徳川家康は1ヶ月近く江戸城に滞在し、その間、西軍の切り崩し工作を黒田長政や池田輝政が行なっています。ポイントになったのは、福島正則、総大将の毛利輝元の従兄弟であった吉川広家、同じく毛利一族である小早川秀秋の3人で、3人の調略を黒田長政が、福島正則の動向を池田輝政が監視するといった役割分担だったようです。

そして、福島正則が池田輝政とともに岐阜城を攻略した報を聞いた徳川家康は、10月7日 江戸城から 3万余の兵で出陣し、10月19日 岐阜に着陣、1600年10月21日 関ヶ原の戦いで西軍と激突しました。

【関ヶ原の戦い 布陣図】

関ヶ原の戦い 布陣図

関ヶ原の戦いでは、東軍 90,000人と西軍 80,000人が戦いましたが、西軍側は、南宮山方面で、東軍に通じていた吉川広家(4,200人)が動かなかったため、本隊の毛利隊(16,000〜17,000人)・長宗我部盛親(6,600人)・長束正家(1,500人)が動けず、松尾山方面では、同じく東軍に通じていた小早川秀秋(11,000人)が動かない状況で、全軍の4割程度しか戦線参加していない状況でした。

結果として、当初は互角以上の戦いを行なっていた西軍も、時間の経過とともに徐々に東軍に押されるようになってきます。そして、正午過ぎ、小早川秀秋が東軍に寝返ったことで、まずは大谷吉継隊、続いて宇喜多秀家隊、小西行長隊と順番に戦線が崩壊し、最後は石田三成隊が破れ、関ヶ原の戦いは東軍の勝利で終わりました。

このように見てくると関ヶ原の戦いでの東軍の勝因とは、

  • 豊臣恩顧の七将を確実に味方に引き入れたこと
  • 総大将である毛利輝元と豊臣秀頼の出陣を許さなかったこと
  • 吉川広家と通じ、西軍の中心戦力の一つであった毛利秀元の兵を戦線参加させなかったこと
  • 同じく西軍の中心戦力の一つであった小早川秀秋の裏切りを成功させたこと

が大きな勝因であったと考えられます。

そういった意味では、関ヶ原の戦いにおける東軍の勝因とは、基本的に戦いの前の西軍諸将の切り崩しと言って良いでしょう。

以下に関ヶ原の戦いにおける兵員数と論功行賞の表を記載しますが、実際、関ヶ原の戦いの前哨戦を含め先鋒として活躍した福島正則、自分の息子である松平忠吉、そして石田三成を捕縛した田中吉政を除けば、豊臣恩顧の七将、中でも調略に関わった黒田長政と池田輝政への恩賞が破格だったことを示しています。

関ヶ原の戦いにおける兵員数と論功行賞

兵員数(人) 加増石高(万石)
徳川家康 30,000 +145
福島正則 7,200 +25.8
筒井定次 6,000 0
細川忠興 5,400 +21.5
浅野幸長 4,800 +21.6
池田輝政 4,500 +36.8
黒田長政 3,700 +36.8
井伊直政 3,600 +6.0
加藤嘉明 3,000 +10.0
田中吉政 3,000 +22.5
松平忠吉 3,000 +42.0
京極高知 3,000 +2.3
藤堂高虎 2,400 +12.0
寺沢広高 2,400 +3.7
山内一豊 2,000 +13.3
生駒一正 1,800 0
金森長近 1,100 +2.3
古田重勝 1,000 +2.1
有馬豊氏 900 +1.0
織田長益 600 +1.0
本多忠勝 500 +5.0
竹中重門 180 0
合計 90,080

もしも仮に、小早川秀秋の率いる 11,000人や毛利秀元の率いる 15,000人が当初から戦線に参加し、東軍を攻撃していたとすれば、戦いの女神は西軍に微笑んだに違いありません。

日本・世界の主要な戦いの勝因・敗因がここに・・・

次は「戦いの勝因・敗因一覧」を見てみる

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