官渡の戦い|袁紹軍の敗因

官渡の戦い|勝因・敗因 戦いの勝因・敗因

官渡の戦い|袁紹軍の敗因

官渡の戦い 袁紹軍の敗因

官渡の戦いは、西暦200年の三国時代に起こった圧倒的な大軍を抱える袁紹軍とそれに挑む曹操軍との間の戦いです。

官渡の戦いでは、兵力的に劣っていた曹操軍が袁紹軍を破り、河北の雄であった袁紹は、以降天下を臨むことが二度とありませんでした。

官渡の戦いにおいては、兵糧の枯渇に苦しんだ曹操軍が烏巣(うそう)という袁紹軍の兵糧の保管場所を襲ってこれを焼き払ったことで、兵糧を失った袁紹軍は大軍を維持することができなくなって敗走し、曹操軍が勝ちをおさめることになったと言われています。

そういう意味では、官渡の戦いでの袁紹軍の敗因のポイントとなったのは「兵糧」と言って良いでしょう。

逸話では曹操の昔の旧友で袁紹の配下となっていた武将が曹操の元を訪れて曹操に降伏をもちかけるところを、逆に曹操がこの男から兵糧の保管場所を聞き出してそこを急襲させたという話があります。

実際にそのようなことがあったかどうかはわかりませんが、兵糧の管理ということに関してあまり重視をしていなかった袁紹軍の弱点を曹操軍に突かれたということがこの戦の最大の焦点になりました。

袁紹ほどの優秀な武将が兵糧の保管場所に気を配らなかったということは疑問が残りますが、当時、戦というのは今でいうルールのようなものがあって、それを破るのは恥ずべき行為だという概念があり、武将はそれを誇りとしていたと言われています。だからこそ将軍同士による一騎打ちというようなものが当然のように戦の中で存在していたわけですが、名門の出で若くして高い官位に就いていた袁紹にとっては、“戦とはこういったもの”という固定概念があったのかもしれません。

“軍隊をもって、正面からぶつかって雌雄を決する” ことが当時のルールであれば、戦いの上で重要とはいえ、兵糧の保管場所に敵が主力部隊を割いて焼き討ちを掛けるという考えは袁紹に無くとも不思議ではありません。せいぜい兵糧の枯渇に苦しむ曹操軍が少数の兵で烏巣に備蓄している兵糧を奪いに来る程度の想像力だったのでしょう。

そして、戦いはこうあるべきと固定概念の中で考える袁紹に対して、今の状況で勝てる手を考え、どんな手を使ってでも勝とうとする曹操の違いが、官渡の戦いの勝敗を分けたのかもしれません。

また、官渡の戦いでは、袁紹軍幹部の間で不協和音が生じており、軍を監督する立場の沮授が病気を理由に指揮を辞退したり、持久戦を主張した参謀の田豊を袁紹が投獄したり、と一枚岩で曹操軍に当たれなかったのも袁紹軍の敗因と言えます。

いずれにしても、官渡の戦いの後で袁紹の勢力は急速に衰えることになり、反対に曹操の勢力は飛躍的に拡大していくことになります。名門の出で、固定概念の外から物事を見るということが出来なかった袁紹と固定概念にとらわれない発想の曹操との差は埋まることは二度となかったのです。

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