水野忠邦のエピソード
水野忠邦は「天保の改革」を行った人物としても有名な人ですが、1794年に唐津藩第3代藩主である水野忠光の二男として生まれたところから歴史が始まります。ただ長男の芳丸が早世してしまったので、1805年に水野忠邦は唐津藩の跡継ぎとなりました。
元々水野忠邦自体は幕藩として昇格する事を強く望んでおり、1816年には城中における武家の礼式を管理する「奏者番」となる事が出来ました。
ただその立場でずっと満足している様な人物ではなく、もっと上までのぼりつめたい、そう思う気持ちが水野忠邦にはありましたが、それには一つ問題がありました。それは、唐津藩にずっといたままでは長崎の警備をするという以上の出世を見込む事は出来ないという事です。
唐津藩とは長崎の近くにあった藩の名前で、石高は6万石と言われています。しかし実際にはその土地は土壌の品質も良く田畑の収穫も満足に出来ていたので、実際の収入は20万石程有りました。払うべき税金は6万石、それに対して収入は20万石と言う事で、かなり財政も潤っていたというのが実情です。
それだけ沢山のお金がある藩の藩主として跡を継ぐ事になっていた水野忠邦ですが、唐津藩には長崎の警備をするという仕事が有るので、それ以上の仕事をする事が出来ません。そこで水野忠邦が注目したのが転封と言う事です。実際に自分の藩ではなく別の藩に移る事によって、今のままの状態でいるよりもより上に登って行く事が出来ると判断しました。
ただこれに対しては当時の家臣たちは大反対をします。しかし自分の出世の為には唐津藩のママではメリットが今以上には無いと判断した水野忠邦は、結局その反対を押し切り転封する事になりました。そこで利用したのが浜松藩です。
浜松藩自体は唐津藩と同じで6万石の藩となっています。
実際の石高自体は浜松藩よりも唐津藩の方が少々上なのですが、重要なのは浜松藩からは後に老中となっている人物もいるという事でした。唐津藩にいるよりも、浜松藩にいる方が自分自身の出世にはメリットがあると判断しました。ただ転封自体はそんなに簡単に行う事が出来る物ではありません。
特に理由が自分自身の出世の為という事になるので、簡単に転封を許可されるわけではない為、結果的に水野忠邦はわいろを使って実現させました。その時に利用したのが唐津藩の収入です。
無事浜松藩に転封する事が出来た水野忠邦は、大阪城代京都所司代と徐々にその地位を上げて行き、41歳になった時には老中の座を手に入れる事が出来ました。ただその当時、実験を握っていたのは将軍である徳川家斉です。そのため、実際に老中になったばかりの頃は水野忠邦がイメージしている様には政治を思う通りに動かす事が出来ませんでした。
しかし自分自身の為の改革が出来るタイミングが訪れました。それが徳川家斉の亡くなった時です。
徳川家斉は1841年に死去していますが、その以降、水野忠邦の思う様に政治を動かす事が出来るようになります。そこで行ったのが「天保の改革」です。江戸時代には3つの大きな改革が行われていますが、「天保の改革」はその一つとして有名です。