西南戦争 政府軍の勝因
今回は、明治維新後最大の内戦となった西南戦争で勝者となった政府軍の勝因について見ていくことにしましょう。西南戦争とは、不平士族による大規模な反乱で、西郷隆盛を要した薩摩軍と明治政府軍が戦いました。
西南戦争は1877年に起こりましたが、1873年の政変で、維新の功労者の一人である西郷隆盛が下野したところから始まっていたのかもしれません。
鹿児島に帰郷した西郷隆盛の周りには、彼を慕ってたくさんの士族が集まり、西郷は私学校を開き、士族の青年に対し、戦いの教練も含めて教育を行います。西郷は、ロシアの南下政策を懸念し来たるべき時に日本を守るために、青年への教育を行っていたようですが、明治政府は、西郷を中心とした勢力について脅威と感じ始め、西郷隆盛暗殺も含めて諜報活動を行なっていました。
西郷隆盛は、下野した当初、自らの武力で政府に対抗しようなどということは考えていなかったようです。農作業を行ったりして穏やかな生活を送っていた西郷でしたが、明治政府によるスパイ活動に反発して決起した士族や学生に担ぎ上げられる形で挙兵を決断することになります。
こうして始まった西南戦争ですが、明治政府軍の兵力約 70,000人に対し、西郷が率いた薩摩軍の兵力は 30,000人だったと言われています。
開戦当初こそ、地元の利を活かし政府軍を上回る兵力を動員した薩摩軍に熊本鎮台のあった熊本城を包囲され、熊本北部まで進出を許してしまいましたが、開戦からわずか一週間ほどで政府軍は増援を受け、双方の動員兵力は逆転することになり、それは終戦まで変わりませんでした。
西郷は戦いを進める中で全国の不平士族を糾合しようと考えていたのかもしれませんが、制海権を手に入れた政府軍によって孤立状態となった薩摩軍は、九州南部の不平士族を糾合するのがやっとでした。
局地的な戦闘だけを見れば薩摩軍は善戦していましたが、戦闘で兵力が削がれてもすぐに補充することができる政府軍に対し、味方の兵力が減っていく中で補充がままならない薩摩軍とでは、戦いを進めていくにつれ、兵員差・武器の質や数の差といった戦力差が次第に生まれていきました。
その結果、7ヶ月以上という長期間に渡る戦闘の中で、徐々に政府軍は鹿児島方面へ薩摩軍を押し戻していくことになります。そして各地で敗れた薩摩軍は鹿児島まで退き、西郷隆盛が鹿児島の城山で自刃するという結末を迎えます。
こうして明治維新後、国内最大規模とも言える西南戦争は終わりを迎え、この戦いを機に明治政府に対して武力で反抗しようと考える士族はなくなりました。多くの戦力を失い、戦費的にも大きな損失を抱えた明治政府でしたが、西南戦争以降、徴兵制による常備軍の設置と軍の近代化を図っていくことになります。
振り返ってみて、西南戦争における政府軍の勝因とは「制海権を取り、西郷隆盛の動きを九州南部に封じ込めた」ことに加え、開戦当初を除き「常に薩摩軍を上回る兵力と装備を供給し続けた」ことだったと言えるでしょう。