鳥羽伏見の戦い 旧幕府軍の敗因
鳥羽伏見の戦いとは、新政府軍が勝利して、旧幕府軍が敗退することとなった戦いです。その後の戊辰戦争の始まりとなった戦いとして有名です。
鳥羽伏見の戦い開戦時の双方の兵力は、薩摩藩を中心とする新政府軍 5000人に対して、旧幕府歩兵隊・会津藩・桑名藩などを中心とした旧幕府軍 15000人と圧倒していました。
さらに装備自体も旧幕府軍はフランス式の訓練を受け、装備も一部の部隊を除けば薩摩・長州藩と同等かそれ以上のものを有していました。
普通に考えると負けるはずのない旧幕府軍ですが、なぜ新政府軍に敗れてしまったのでしょうか?
まず旧幕府軍の敗因の一つとして、士気の高さが新政府軍に遠く及ばなかったことが関係していると考えられます。ここで言う士気の高さというのは、兵隊の士気ではなく、上層部の士気の高さです。
大政奉還にとどまらず「倒幕」に動いた薩摩藩と、西郷隆盛らによる挑発で「倒薩」を認めざるを得なくなった徳川慶喜との覚悟の違い・士気の違いが戦いの勝負を決めた形です。
さらに、旧幕府軍の敗因としては、現場指揮官の指揮力のなさもありました。指揮官が不在であったり逃げ出したりとしただけでなく、狭い鳥羽街道・伏見街道にて縦隊で突破を繰り返し、優勢だった兵力を生かすことなく犠牲を増やすのみでした。
こうして一進一退の戦いをしているうちに、新政府軍に錦の御旗が掲げられ「官軍」と戦うことになってしまいます。そして戦闘開始から3日目に入ると、現職の老中であった淀藩、そして津藩が離反し、旧幕府軍は総崩れの状態になり、鳥羽伏見の戦いは新政府軍の勝利で終わります。
ちなみに、当時大坂城にいた“総大将”たる徳川慶喜は逃げ戻る味方の兵を置き去りにして、わずかな側近を連れ海路で江戸に戻ってしまいます。
鳥羽伏見の戦いで敗れたとはいえ、残存兵力を収容し、立て直して反撃をすることも十分可能な状態だったと思われますが、こうした旧幕府軍上層部の士気の低さが戊辰戦争を生んだことになります。いかに兵自体の士気が高くとも、現場指揮官に能力が欠け、トップが逃げ腰では、勝てる戦も勝てません。