ポリティカル・コレクトネスと
ポリティカル・コレクトネスとは、人種や障害、宗教などによる差別的な言葉を政治的に用いず公正にするということです。
例えば、黒人やイスラム教徒に対する偏見・差別的意識から移民排斥などの政策を行おうとする政治家がいる場合、それは政治的に公正ではないので「ポリティカル・コレクトネス」を目指すべきだと言われます。
ただ、「ポリティカル・コレクトネス」という言葉自体、元々は人種や性別、性癖などで差別・抑圧されてきた人たちが平等に扱われるべきだという公民運動や女性解放運動のために使われてきたものですが、使われ方が時代とともに変化しており、抑圧される少数派は何を置いても優遇されるべきだというマイノリティーの武器のように使われるようになってきています。
このことで、ポリティカル・コレクトネスの対象ではない多数の人々の中に大きな不満が蓄積されて、やがては政治的に埋めることの出来ない溝を作り出しています。それは政治的なことに限らず、一般の人の日常生活などでも見られることです。
差別的な言動を繰り返すドナルド・トランプ氏がアメリカ合衆国の大統領の座についたのも、行き過ぎた平等になりつつある社会に対して不満を抱える人達が、声を上げ始めたという部分が大きいのです。
日本においても「ポリティカル・コレクトネス」のような問題は存在しており、在日コリアンの立場向上や女性の社会進出、障がい者の住みやすい社会、といったことを目指して運動をする人がいます。その結果として、成立した法律も少なくありません。
しかしその一方、人種差別的な言動により、その運動を止めようとするヘイトスピーチ運動も過激になっています。ポリティカル・コレクトネスが何者にも侵されないアイデンティティを確立させるための運動であるとすれば、ヘイトスピーチは個人の信条を守るための運動であり「表現の自由」であるのだから保障されるべきだということで、両者は真っ向からぶつかり合っている状況です。
ヘイトスピーチを正しいことだとは思わないけれども、何かというと差別だ、と訴えるポリティカル・コレクトネスに辟易している人も少なくありません。みんなが多様性を認め、平等であることは理想的ではありますが、現在のように表現規制につながっている状況では、この問題が真に解決することが難しい状態になっているように思います。