ところで、遠く離れたモンゴルでも勢力争いが起こっていました。様々な部族が争った果てに、1206年、部族長テムジンが制圧すると、彼はチンギス・ハンと名乗り、全モンゴルを統一しました。この勢力は非常に強く、次権の三男・オゴタイから四男の子息フビライを5代目にと長きに渡り、中央アジア、西アジア、南ロシアと広範囲にまたがったモンゴル帝国を築いていきます。
モンゴル帝国は、版図拡大として日本も標的にしており、前執権政村の時より、日本はこのモンゴル帝国からの圧力に苦しめられてきていました。1268年、5代目フビライよりモンゴル帝国への服属を求める国書を預かった使節が来訪し、鎌倉幕府にその国書が送られてきました。
北条時宗はそれに対して、返答はせず、今後のモンゴル帝国からの侵略に備えて準備を進めていくことになります。北条時宗が、時には強引な策を取ってまで得宗制を貫いてきた理由として、モンゴル帝国に対抗し、国力強化を図る必要性があったのです。
緊張感が高まる中、1272年、北条分家内の反得宗派勢力による、二月騒動が起こります。関わったとされるのは、時宗の異母兄弟であり、時頼と側室の子で長男の北条時輔、北条傍流の名越時章・教章等でしたが、彼らを殺害する事で更に得宗一本化を進めました。
日本から返答がない事で、元(旧・モンゴル帝国)フビライは日本侵攻を決意し、フビライは1274年に文永の役で1度目、1281年に弘安の役で2度目と襲撃を受けましたが、国力強化を図ってきた北条時宗は、撃退する事に成功しました。
1度目は合戦時の元への突風襲来、2度目は進行前の元への台風襲来といった天候にも助けられたことは事実ですが、撃退できた背景には、北条時宗が進めた得宗専制によるところが大きかったと言えるでしょう。
北条得宗家による専制を確立した父時頼・・・
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