大河内正敏|偉人列伝

偉人列伝

大河内正敏|偉人列伝

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若き日の田中角栄は新潟から出て建築関係の会社で働いていましたが、後に19歳で共栄建築事務所を設立します。理化学興行の下請け事務所でも労務経験のある田中角栄に、大河内正敏は、こんなことを言います。「理研関係会社に籍を置かなくてもよいから、建設計画について勉強をしなさい」と。当時二十歳の田中角栄の、頭の回転の良さ、並外れた行動力を高く評価した大河内正敏が、彼に多くのチャンスを与えたのです。

田中角栄は、1937年頃から理研関係の建設工事を次々に請け負います。1939年に兵役に就き、一時建設の世界から離れますが、1943年には建設の仕事に復帰、再び理研関係の仕事を次々こなし、急成長を遂げます。1945年の終戦時には、朝鮮半島で理研絡みの建設事業を行っていました。翌年の1946年、田中角栄は衆議院議員選挙に初当選を果たします。その後の内閣総理大臣まで上り詰める活躍は、多くの人が知るところです。

政治家になる前、若き日の田中角栄に後に活躍をするための力を蓄えさせるきっかけを与えたのが、大河内正敏その人なのです。多くの優秀な研究者が、彼が考えたシステムから輩出されていますが、それだけではなく、大物政治家をも育てていた大河内正敏のエピソードは彼の人間としての幅を感じさせます。

人を見抜く優れた目を持っていた大河内正敏を評して、身近にいた一人である研究員、佐藤俊一は「先生は、人を見る眼が特に秀でておられ、偽物は直ちに見破られ、真面目な研究者をよく保護育成された。研究室の空気は健全明朗、先生を中心に皆愉快に研究に没頭することができた。」と語っています。多くの分野で才能を発揮し、人を見出す眼力にも長けていた大河内正敏の人物像が見てとれるエピソードと言えるでしょう。