その後、薩摩藩は薩摩と大隅が分断される形となり、それが長州の陰謀ではないかという疑いから自らを鹿児島県令にするよう求め、西郷隆盛にもみ消されるということがあったり、明治天皇が鹿児島に滞在していることを知り、政府の改革に反対する意見書を奉呈するなど、アクションを起こし続けました。
その後、島津久光は、名誉職や内閣顧問などを歴任し、左大臣となったものの、政府の意思決定機関からは排除され、左大臣を辞職し、鹿児島で隠居するようになりました。その後、島津家の史料を編纂する作業に入りますが、亡くなるまで廃刀令などに反発し、ちょんまげはそのままに帯刀、和装のままで生涯を通します。その後、西南戦争が始まるも中立の立場を貫き、1887年、71歳で亡くなりました。亡くなった後も、これまでの経緯もあり、明治政府は島津久光を最高級の形で扱い、国葬が行われました。
島津久光の生涯は幕末の大混乱の中、生き続けることになり、その混乱にただただ翻弄されることになっていきました。実質的な実権は握っていたものの、藩主は別にいたため、そうした複雑な構造もまた様々な混乱の原因となりました。島津久光の運命を左右したのは生麦事件、後に発生するイギリスとの戦争であったことは言うまでもありません。それまでは外国と戦えると思っていた久光は、イギリスの戦闘力の高さ、技術の高さに驚くことになります。また、この時の交渉では自らが出ていくのではなく、信頼できる部下にすべてを任せ、イギリスから軍艦を購入するなどの和睦策でまとまり、イギリスとの関係を良好なものにするばかりか、堂々と幕府の前で軍艦を購入し、イギリスに支払う費用を江戸幕府から借り、その費用を全く出さずに解決にこぎつけました。ここで仮に失敗したら、薩摩藩が主体となって明治維新のきっかけを作っていくということはできませんでした。
島津久光は、父、斉興が藩政改革によって作り出した財産、技術などをフルに活用し、イギリスとの外交関係を強め、当時敵対していた長州と手を結び、そして、倒幕に向けて尽力した姿が後年評価されています。急激な改革に異論を投げかけながらも最後まで抵抗し続け、矜持を保ち続けた姿勢に現代の人間も学ぶところはたくさんあり、最後の最後まで誇り高く生きることの大切さを島津久光は教えてくれます。