木崎原の戦い 伊東軍の敗因
木崎原の戦いは、1572年6月14日に現在の宮崎県えびの市で行われた伊東氏と島津氏による合戦で、勝者となった島津氏にとっては、南九州の覇者となるきっかけとなった戦いです。
今回は、この木崎原の戦いにおける伊東軍の敗因について考えてみることにします。
日向国を治めていた伊東義祐は、島津家15代当主 島津貴久が没したのを好機とみて、領土拡大を目指して侵攻を開始します。伊東軍は、伊東祐安を総大将に3000人の兵を動員し、さらに肥後の相良氏の援軍も取り付けており、戦略的には有利な状況にあったようです。
一方、伊東氏との国境付近を任されていた島津義弘(島津家16代当主 島津義久の弟で、後の17代当主)は、わずか 300人の手勢で伊東軍 3000人を迎え撃ちます。
伊東軍は、隊を二手に分け、本隊は島津義弘の居城 飯野城への備えとし、別働隊は島津義弘の妻子がいた加久藤城へ攻め寄せました。しかし、狭い隘路で加久藤城の城兵の反撃を受け、大軍の利を生かせずに退却を余儀なくされます。
退却した伊東軍の別働隊は池島川付近まで下がり休息していましたが、その情報を得た島津義弘の本隊に油断しているところを急襲され、大きな損害を受けました。
その後、伊東軍は本隊と別働隊が合流しますが、正面・背後・側面からの攻撃を受けて戦線が崩壊、さらに退却中にも伏兵に襲われ、総大将の伊東祐安 以下主だった武将のほとんどを討ち取られる大敗北を喫してしまいました。
この木崎原の戦いにおいて、島津義弘は軍を3つに分けて、主力は敵の正面から打ちかかり、残りの二手を伏兵として忍ばせる計略を取りました。「釣り野伏せ」という島津軍が少数の兵で戦う際に使う戦法で、正面の部隊が敗走して、勢いづいた敵兵が追い討ちを掛けようと進んだところを伏兵で攻撃し、混乱に陥っているところに正面の部隊が反転、3方向から包囲殲滅するものでした。
といっても、木崎原の戦いにおいては、この「釣り野伏せ」の戦法は狙い通り成功したとは言えず、島津軍 300名のうち生き残ったのはたった50名ほどであったとされ、かなり激しい戦いとなったことを物語っています。
6人のうち5人が戦死する状態であれば、すでに戦線は崩壊しているはずですが、そんな状態でも部隊としての統率を失わなかった島津軍と戦った伊東軍は相手が悪かったとしか言いようがありません。
後日談となりますが、島津義弘は、朝鮮出兵において朝鮮兵から「鬼石蔓子」と恐れられ、その武名は朝鮮だけでなく明国まで響き渡ったとされ、また、関ヶ原の戦いでも、東軍の大軍の中を正面突破をして退却を成功させています。
このように見てくると、木崎原の戦いにおける伊東軍の敗因とは「数に奢って島津軍を侮って油断していた」ことにありますが、稀代の猛将 島津義弘を相手にしたことと言えるかもしれません。