ところで「桂小五郎」が「木戸孝允」と改名したのは1868年、東京招魂社、現在の靖国神社の建設に携わったことがきっかけだと言われています。それまで幕府からの指名手配を受けていたものの、彼を要職に登用したかった長州藩の命で姓を「木戸」と変えていましたが、名前を「孝允」としたのはこの時からです。
「孝允」は彼にとっての諱(おくりな:本来死後に送られる名前)です。それを神社の建設から正式に名乗り始めたことから近代化のために命を賭けた同志たちの弔いの意味があるのではないかという説が有力な説として扱われています。
そんな木戸孝允の他のエピソードを見てみましょう。
幼い頃、川に潜って川を行き来する船に悪戯していました。しかしある日、悪戯された船の船長が怒って子供だった木戸孝允の頭を叩き、おでこに三日月型の傷が出来てしまいます。その傷は流血するほど深いものでしたが、彼は気にすることなく笑っていたそうです。
江戸で剣術修行をしていた頃のエピソードでは、桂家が裕福だったために金銭に無頓着なところがあり、家から金の仕送りがあっても棚の上に放り出していたようです。そんな彼がある日、金が必要になったのでその包みに手を出すと、中身は空っぽでした。どうやら盗まれたらしいのですが、全く慌てずに「ネズミが引いていったのだろう」と平然と言ったといわれています。
また、時計が大好きな一面もありました。
横浜で洋式銃を購入するついでに懐中時計も買おうとしましたが、手持ちがありません。しかし木戸孝允は筋金入りのコレクターだったので、どうしても懐中時計が欲しく、何と藩の公金で購入してしまったエピソードもあります。ちなみにこのことを密かに同じ長州藩の志士である来島又兵衛に打ち明けて立て替えてもらっています。
それから志士時代から木戸孝允は酒宴で大酒を飲むことがありましたが、泥酔して意識を失ったことが多かったこともよく知られています。