渋沢栄一は江戸時代末期から大正初期にかけて活躍した日本の武士であり、その後の新しい政府でも官僚や実業家として大いに名を馳せた偉人です。
渋沢栄一のエピソードは数多く残されていますが、東京証券取引所や国立銀行など様々な種類の企業や団体を設立させた功績から、日本資本主義の父とも呼ばれて親しまれています。
渋沢栄一は、1840年2月13日に現在の埼玉県深谷市にある村で長男として誕生しました。幼名は栄二郎と言い、のちに様々な名前へと変更しています。当時の渋沢家は、藍玉の製造販売や養蚕、米や麦といった農業まで幅広く手がける豪農として知られていました。栄一たち子供も、幼いころから家業の手伝いを行うことで農業の知識はもちろん商業的な才覚も養われ、仕入れや販売なども経験を重ねていたと言われています。子供時代のこの経験が、のちに渋沢栄一がヨーロッパの先進的な経済システムを吸収し、日本における合理主義思想を発展させた基になっているといえます。
渋沢栄一は当時としては異例のわずか5歳の頃から読書を嗜み、7歳の時には様々な書物を基にした勉学や剣術も学んでいました。19歳になると結婚し、名前を栄一郎と改めて江戸で勉学や剣術の腕を磨いていました。
渋沢栄一は、尊王攘夷に目覚めて活動を開始しますが、うまくいかなくなってきた頃に将軍家ゆかりの者と親交を深めたことで幕臣として仕官することになります。幕臣になってからはパリで行われた万国博覧会を視察したり、ヨーロッパ各国を歴訪して先進的な軍備や産業、経済などを目の当たりにして大きく感銘を受けます。幕府による大政奉還が行われるまでヨーロッパに滞在していた渋沢栄一ですが、大政奉還後は新政府の帰国命令に従って日本へ戻ってくることになりました。
日本に帰国してからは、大政奉還後に静岡に謹慎の身となっていた主君と対面し、一橋慶喜から今後は自分のために生きるようにとの言葉を拝受したことをきっかけに、ヨーロッパで学んだ株式会社制度を日本でも実現するために、1869年に静岡で最初の商法会所を設立しました。しかし、会社の経営に本腰を入れようとしたところで大隈重信に求められ、政府機関の一つである大蔵省に入省することになりました。
渋沢栄一は、官僚として様々な改革案を作成するなど中心的な役割を果たしていましたが、国の予算編成を巡って他の政府重鎮たちと意見が対立し、1873年には退官してしまいます。1875年には改めて商法講習所を設立し、設立に携わっていた国立銀行の頭取として就任しました。その後は長らく経済界に身を置き、500以上とも言われる途方もない数の地方銀行や企業の設立に力を注いできたのです。今でも大手企業として名前を知られている会社の多くは、渋沢栄一によって設立された過去があります。