百戦百勝は善の善なるものに非ず
「孫子」は、二千数百年前の弱肉強食の時代に生きた孫武が書いた兵法書です。
その中から、今回は孫子にある「百戦百勝は善の善なるものに非ず」という有名な言葉を見てみることにしましょう。
およそ兵を用うるの法は、国を全うするを上となし、国を破るはこれに次ぐ。
軍を全うするを上となし、軍を破るはこれに次ぐ。
(中略)
百戦百勝は善の善なるものに非ず。
戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり。
が「百戦百勝は善の善なるものに非ず」のくだりですが、現代語訳にすると、
戦争をするとき、相手の国を痛めつけず降伏させるのが上策で、戦で破って降伏させるのは次善の策である。また、相手の軍隊も同様で、痛めつけず降伏させるのが上策で、戦で破って降伏させるのは次善の策である。百戦百勝は実は最善ではない。戦わないで敵を屈服させることが最善である。
という意味になります。
「百戦百勝」と聞くと最強のように感じますが、戦いの結果、降伏させた相手の国力が低下するだけではなく、自国の犠牲も生じます。勝利に見合った体力(国力)が得られないまま“勝ち”を続けていっても、いずれ体力的な“飽和点”に達してしまいます。そして、“飽和点”に達した時、百戦負け知らずでも、101戦目は敗れてしまうことになるのです。
“勝ち”に見合った体力を得て拡大していくことで「善の善なるもの」となります。「戦い」はあくまで手段であって目的ではありませんから、勢力拡大には「戦い」ありきではなく、いかに自分の力を損なうことなく、他者を従えていけるかの知恵を絞るべきでしょう。