華岡青洲のエピソード
日本における偉人は歴史上数多く挙げられますが、中にはあまり知られていないものの、素晴らしい成果を成し遂げた人物も存在しています。その最たるものとして、医術の世界で最も有名な偉人の一人に花岡青洲という人物が挙げられます。花岡青洲はおそらく世界で初めて、全身麻酔を使って外科手術を成功させた人物としてその名を知られており、日本の医学界に大きな影響を与えた功績が称えられています。
花岡青洲は、1760年に紀伊の国に誕生した江戸時代の外科医です。
花岡青洲は、成長すると京都に出て、古医方を3ヶ月ほど学んだ後にオランダから伝わった外科技術を約1年間学びました。これにとどまらず、東洋医学とオランダ式の外科学を折衷させた独特の医学まで学び、知識だけでなく医学書や医療器具など医術に関するあらゆるものに触れて学び続けました。
花岡青洲は、父の跡を継いで医師として開業すると、様々な治療を施すようになりましたが、当時は麻酔がまだ開発されていない時代だったため、外科手術を行う際に患者は激痛に苦しめられていました。この様子を見かね、手術を受ける患者の痛みや苦しみを和らげることができないかと考えた青洲は、独自の麻酔薬の開発を進めることになります。これが日本で最初に使用された「通仙散」という麻酔であり、外科手術を飛躍的に進歩させた偉業として称えられるに至ったのです。
花岡青洲が開発したのは、曼陀羅華という植物をベースにした麻酔でした。曼荼羅華はチョウセンアサガオとも呼ばれる植物で、これに複数の薬草を加えて完成したものを経口摂取するという方法です。チョウセンアサガオは既に3世紀頃には中国で麻酔用に使用されていたと言われていましたが、どのように加工するのか、どのように使うのかなどが全く伝わっておらず、手探りで進める必要がありました。
花岡青洲は独自の技術と知識を総動員して配合を重ね、動物実験を繰り返して成果を確認していきました。しかし動物実験だけでは人間の患者に対する効果は確定できず、安全性にも問題が残ることとなり、開発は行き詰ったかに見えました。苦悩する青洲に対し、自分を実験台にするよう声を上げたのは何と青洲の母親と妻でした。2人に数回にわたって開発した薬を試して試行錯誤を重ねたところ、安定した成果を得られるまでになりましたが、代わりに母親は亡くなって妻は失明するという大きな代償を支払うことになりました。麻酔が完成するまでには実に20年という途方もない期間が過ぎていましたが、これで苦しむ患者を救うことができると青洲は喜びました。
華岡青洲のエピソードとして最も有名なのは、やはり世界で初めて行われた麻酔を使った乳がん手術でしょう。海外では16世紀頃から乳がん手術が行われていましたが、当然のように麻酔なしで行われていたため大掛かりな手術はできず、患者の痛みも想像を絶するだけでなく手術の結果も大したものは得られていませんでした。日本では胸は女性の急所であり、手術などすれば死んでしまうと信じられていたため、切除手術を行おうとする人もいなかったのです。