西南戦争|西郷隆盛の敗因

西南戦争|勝因・敗因 戦いの勝因・敗因

西南戦争|西郷隆盛の敗因

西南戦争 西郷隆盛の敗因

西南戦争とは、1877年に薩摩士族が起こした大規模な反乱です。薩摩士族は、1873年に下野した西郷隆盛を担ぎ、政府軍と戦いました。

そもそも西郷隆盛は政府軍との戦いを望んでいなかったと言われています。西郷隆盛は征韓論に敗れて下野した後、故郷である鹿児島に私学校を創設、優秀な人材を鹿児島県政に送り込んでいました。

鹿児島県政に私学派が浸透していくのを快く思っていなかった明治政府は、鹿児島にスパイを送り込むと共に、新型であったスナイドル銃の弾薬の製造設備を鹿児島県外へと搬出してしまいます。

さらには、私学派が政府のスパイへ拷問を行なった結果、私学校生徒の切り崩し、西郷隆盛の暗殺を企てていたとの自白を得たことから、西郷隆盛は周囲に押される形で出兵準備に入ります。

しかし、西郷隆盛が挙兵との報を受けた政府軍の動きは素早いものでした。

実際に薩摩士族(以降、薩摩軍)の先鋒が鹿児島を出発したのが 2月15日、西郷隆盛自身が鹿児島を発ったのが2月17日でしたが、明治政府は 2月19日に征討の詔を発布し、征討軍の編成を行なっています。

西南戦争は、熊本城を舞台に2月20日から始まりましたが、4000人で守る官軍に対し、薩摩軍は14000人の兵力で総攻撃を掛けたものの、大砲などが不足していたこともあり、数度にわたった攻撃はことごとく失敗し、西郷隆盛率いる薩摩軍は貴重な兵力と物資を緒戦で消耗することになります。

その後、2月末頃から官軍側には増援部隊が続々到着し始め、両軍は田原坂付近で対峙します。田原坂付近では1ヶ月近く激しい戦闘が行われ、当初、薩摩軍の抜刀による白兵戦は高い効果を上げていましたが、次第に政府軍に押される形となり、西郷隆盛率いる薩摩軍は熊本城の包囲を解き、後退を余儀なくされました。

そして、その後は、局地的な優勢はあっても、大勢としては兵力消耗による退却が続き、政府軍 約70,000人、薩摩軍 約30,000人を動員した西南戦争は、9月24日の西郷隆盛の自刃を以って7ヶ月余りの戦いが終結することになります。

西南戦争における西郷隆盛の敗因として挙げるなら、「戦いが始まる前にスナイドル銃の弾薬の製造設備を失ったこと」がポイントになると思います。そのため、西郷隆盛率いる薩摩軍は新型銃であったスナイドル銃が使用できず、抜刀による白兵戦中心に戦うことになりました。

訓練された抜刀技術は政府軍にとっても脅威とはなりましたが、白兵戦により兵員・物資とも消耗戦となってしまったことで、戦力の補充が効かない薩摩軍は次第に弱化していきました。

また、西郷隆盛は西南戦争において、篠原国幹や桐野利秋といった大隊長に指揮を委ね、陣頭指揮を執ることなかったことも、西郷隆盛の敗因の一つと言って良いでしょう。戦力的に不利な戦いにおいて総指揮官自らが指揮を執らない状態では、ほぼ確実に敗れてしまいます。その結果、個別の戦闘での優勢を戦局全体に生かすことができませんでした。

そういう意味では、西南戦争において西郷隆盛は敗れるべくして敗れたのかもしれません。

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