西郷従道(さいごう つぐみち)は、1843年から1902年まで生きた薩摩藩の武士で、あの西郷隆盛の弟として知られています。
西郷従道は、大政奉還後の新政府では軍人および政治家として活躍した人物で、階級的には元帥海軍大将まで上りつめました。海軍大臣や内務大臣、貴族院議員などを歴任して政府における重鎮として力を注いでおり、兄と比べて名前そのものは広まっていませんが非常に大きな役割を果たしてきた人物なのです。
西郷従道は、薩摩藩の鹿児島城下にて1843年に誕生しました。幼名は竜助と言い、幼いころから剣術や兵学などを学んでいました。紹介されて薩摩藩主に茶坊主として仕えたこともあり、幼少期から様々な経験を積んでいたと言われています。
西郷従道は、藩主に従って尊王攘夷運動に没頭するようになり、1862年には倒幕のために京都に集まった一党に参加しようとするも、藩から止められて未遂に終わっています。この際にまだ年若かった西郷従道は帰藩して謹慎処分となり、1863年に薩英戦争が起こって謹慎が解けると決死隊に志願して参加しています。戊辰戦争にもそのまま参加し、有名な鳥羽伏見の戦いで重傷を負いながらも各地を転戦したエピソードも残っています。
大政奉還が行われて明治維新が成功すると、西郷従道は、太政官として新政府に仕えることになりました。この際、名前を登録しなければならないのですが、本名であるリュウコウという名前を口にしたものの、鹿児島弁で訛っていたために担当者にジュウドウと聞き間違えられて記録されてしまったという西郷従道のエピソードも残っています。本人も間違いに気づいたものの特に気にすることもなかったと言われており、西郷従道の大らかな性格を窺い知ることができます。
1869年になると、西郷従道はヨーロッパへ渡って当時の最先端の軍備を調査し、帰国してからは陸軍少将に任命されました。1873年に兄である西郷隆盛が政府内の意見の対立から下野した際には、薩摩藩出身の政治家たちが多く従って去ってしまいましたが、西郷従道はこれを良しとせず政府に留まりました。
その後、兄の西郷隆盛が西南戦争を起こすと、西郷従道は兄を助けることなく政府に留まり続けて事態を静観していました。このことで政府内において薩摩派閥の重鎮として力を持つようになり、西南戦争終結後にはトントン拍子に出世しています。
西郷従道は、日清戦争や日露戦争が起こった時には海軍大臣として勝利に導いたことで知られていますが、実は実際に指揮を取ったり作戦を立てたりしたのは部下だったと言われています。しかし、その部下の人選が素晴らしく、西郷従道は能力の高い部下へ権限を与えて自由に腕を振るわせる懐の深さを持っていたのです。
西郷従道は、細かな実務は現場の責任者たちに任せて自分は見守るだけに留め、失敗した場合の責任を自らが取るというスタイルで職務に当たっていたため人望が厚かったと言われています。実際、政府の重鎮が海軍の軍備拡張の相談をしにやって来た際には、自分はよく分からないから部下を呼んで聞いてくれと話したと伝わっており、部下から話を聞かされた重鎮が納得して帰って行ったという有名なエピソードも残っています。