豊田佐吉|偉人列伝

偉人列伝

豊田佐吉|偉人列伝

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しかし1907年に株式市場が暴落して日本は不景気となってしまいます。豊田佐吉は更に商品を開発をしようとしますが、会社側と対立し、追放されてしまいます。

その後、豊田佐吉はアメリカに移ったのですが、そこで見たものは自動車の多さでした。これからの日本も自動車が増えると確信した佐吉は、次なる事業は「自動車」であると息子の豊田喜一郎に自動車の開発を勧めました。

帰国した豊田佐吉は資金をかき集め豊田自動織布工場の建設に着手します。1918年には豊田紡織株式会社を設立して、豊田佐吉は社長に就任します。その時常務は娘婿の利三郎が就任しました。

こうして株式会社豊田自動織機製作所が誕生したのですが、発明の足場となった工場を「自動織機」ではなく「自働織機」と名付ます。無駄を出さないように機械自らが不良品を見つけて止まる、機械に人の知恵を付与する考え方を「自働」と名付けたのです。

以後、豊田自動織機製作所は織機、紡織、自動車、製鋼の4部門で発展を遂げます。

発明王として有名な豊田佐吉の発明したものは下記のものです

  • 豊田式木製人力織機
  • 糸操返機
  • 木製混製動力織機
  • 三九式木製混製動力織機
  • 環状織機
  • L型鉄製動力織機
  • N式広幅動力織機
  • G型自動織機

などがあります。

特に大正13年(1924年)G型自動織機は当日トップメーカでであったイギリスのプラット社に100万円(今の価値で約30億円)で特許権を譲渡しました。それを資金に国産自動車の研究開発が進められました。

佐吉が生涯に得た特許は84件、実用新案は35件、外国特許は13件となり、それらの特許証などは山口県にある豊田佐吉記念館に飾られています。この豊田佐吉記念館はトヨタの社員の研修にも使われて、佐吉の精神を学ぶ場ともなっています。

豊田佐吉は、昭和5年10月30日に64歳で亡くなりました。格言として「人のやったことは、まだ人のやれることの百分の一に過ぎない」というものがあります。