政府転覆の一端ともなっていた土佐藩と連絡を取り合っていたということで、山形監獄に投獄されてしまったのです。獄中で陸奥宗光は妻への手紙を書くだけでなく、書を記し、また、海外の著作の翻訳にも打ち込みました。さらに、特赦によって出獄した後は伊藤博文の助けもあり、ヨーロッパに留学をしています。留学先では西洋近代社会の仕組み、特に政治の構造を知るために猛勉強をしたと言われています。この後の政府での活躍は、この獄中や留学先での経験が大きいと言えるでしょう。
そして1886年、陸奥宗光は日本に戻り、外務省で仕事をするようになります。その能力はすぐに認められ、1888年には駐米大使としてアメリカへ。メキシコ公使も兼任し、メキシコとの平等条約を締結したりもしています。
さらに帰国後は第1次山縣内閣の農商務大臣となり、しかも在任中に衆議院議員選挙へ立候補して見事当選しています。今では閣僚が国会議員であることは当たり前のことがほとんどですが、当時では珍しいことで、その時も閣僚内唯一の衆議院議員でした。その後は政府の要職を次々とこなし、やがて第二次伊藤内閣に外務大臣として迎え入れられます。
すると早速、陸奥宗光はイギリスとの間に条約を締結。治外法権の撤廃を実現します。さらに勢いは止まらず、同様の条件をアメリカ、ドイツなどとも結びます。また朝鮮に対しては清の出兵に対応する形で兵を派遣、朝鮮王宮を占拠して親日政権を樹立させ、日清戦争へと繋げてイギリス、ロシアの中立化にも成功します。これら一連の陸奥宗光による獅子奮迅の活躍は今も「陸奥外交」と呼ばれています。
しかし、そんな陸奥宗光にも老いは訪れます。この頃から悩まされていた肺結核が徐々に悪化し、1896年には外務大臣を辞して療養生活を送り始めます。しかしこの間にも雑誌「世界之日本」を刊行するなど、精力的な活動は続きました。
そして1897年8月24日、肺結核のため陸奥宗光はこの世を去りました。しかし、生前、陸奥宗光が明治後の日本政府に与えた影響は計り知れないものだったと言えるでしょう。