日産自動車と日立製作所をつくった鮎川義介(あゆかわ よしすけ)は1880年(明治13年)11月、山口県山口市で7人兄弟の2番目の長男として生まれました。
長州藩の武士でもあり政治家でもあり、実業家でもある井上馨は鮎川義介の母方の祖母の弟で大叔父にあたり、鮎川家も長州藩の中級以上の武士でしたが、明治維新以後、一家は没落してしまいました。その後、鮎川義介の父は山口県の下級官吏や新聞社などで務めてはいましたが、尋常ではないくらいの貧乏な生活を送っていたようです。漬物と麦が混ざったご飯のみの食事だったというエピソードもあります。鮎川義介の父親は律儀で漢籍に詳しい人でしたが、社交性に乏しく片意地を張った不平家だったといわれています。
そんな父親に代わり、井上馨が鮎川義介の後見人を引き受けてくれたり、その姉である祖母が「お前はきっと偉くなる」と励まし続けてくれたことで義介は現在の山口大学の前身である山口高等学校に入学し、学費の援助を受けながら勉学に励みました。
そして実業と工業が今後の日本の発展につながると考えた井上馨は、鮎川義介にエンジニアへの道を勧めたのでした。そのアドバイスを受けて鮎川義介は東京帝国大学工業学部機械科に入学し生活のことはすべて井上馨に面倒を見てもらいながらエンジニアの道を目指して学びました。24歳で大学を卒業すると井上馨の勧めで三井に入社することになったのですが、義介は入社を辞退したのです。それは1人の職人となって工業の基本から学びたいという理由からで、改めて、東大卒という学歴を隠して、現在の東芝である「芝浦製作所」に見習工として入社をしました。2年間、日給48銭という安い給料で朝早くから夕方まで一日中立ち仕事を続け、東京中の工場見学にも行きました。80か所近い工場を見学し、成功している工場はみな欧米の模倣をしているということが分かった鮎川義介は、今度は西欧の状況を知るためにアメリカにわたり、現地の工場で約一年間労務者として働いたのです。
アメリカから帰国後の明治42年、鮎川義介が29歳の時に井上馨の援助を受け、福岡県北九州市に現在の日立金属である「戸畑鋳物株式会社」を設立しました。当時ではまだ珍しく電気炉による黒芯可鍛鋳鉄の継手を製造を開始し、1922年には大阪に、現在の日立金属である木津川製作所、1924年には現在のディーゼルエンジンの製造販売を始めました。
そして、昭和初期には大陸での軍事輸送のため国産車が必要となってきた時、三井、三菱の財閥が躊躇をしていた中、鮎川義介は国産車の製造に名乗りを上げ、日産自動車の創始者となったのです。鮎川義介は日本で初めて自動車の量産に取組んだ先駆者ということになります。