鳥羽伏見の戦い 新政府軍の勝因
鳥羽伏見の戦いは、慶応4年、明治元年に開始された旧幕府勢力の終焉を決定づける戊辰戦争の口火となった戦いです。
この鳥羽伏見の戦いは、大政奉還により権限が失った徳川家を、新政府が追い打ちをかけるように領地の召し上げを迫ったことで、不満を抱えていた旧幕府勢力が決起したものでした。結果的に勝利を手にしたのは新政府軍でしたが、その勝因とは何だったのでしょうか?
戦は基本的に物量戦ですから、兵の数が多ければ、それだけ有利となります。
しかし、旧幕府軍と新政府軍は 1万5千 対 5千 と圧倒的に新政府軍の不利だったのです。しかも、旧幕府軍が投入した戦力は、新撰組を始めとして、歴戦の強者ばかりでした。それにもかかわらず、なぜ新政府軍が勝ったのかというと、旧幕府軍には戦う意欲がなかったからだったのです。
兵も多く、装備も新政府軍より良い銃を揃えていたので、新政府軍が来ても簡単に追い払うことができると、現場の兵たちは慢心していました。しかも、総大将である徳川慶喜は、武家の棟梁たる征夷大将軍でありましたが、戦のことはよくわかっていませんでした。それは新撰組などを配下に持つ会津藩主松平容保とて同様で、それまで戦らしい戦をした経験がありませんでした。
ともあれ、そのような状態にあった旧幕府軍に対して、新政府軍は一気呵成に攻めかかりました。兵の数や装備の数で劣っていても、戦力差があるにもかかわらず、そこまで勢いづいたのは、この戦いに負ければ明治維新が水泡に帰すという危機感にあったのです。1月3日に始まった戦いは1月5日まで続き、その間、新政府軍は互角に戦ったのですから、新政府軍に負けられない理由があったとはいえ、いかに旧幕府軍が統率をとれずに大軍の利を活かせなかったのかがわかります。
そして1月5日に、戦いの趨勢を決めた出来事が起こります。
新政府軍が戦場に錦の御旗を掲げてきたのです。意欲が欠けていた旧幕府軍の戦意が、そこで潰えました。なぜならば、錦の御旗を掲げた軍に武器を向ければ、それはすなわち朝敵を意味するからです。誰よりも戦意を喪失したのが、総大将である徳川慶喜であり、戦場を後にして松平容保など少数の供をつれて江戸に逃げ帰ったことは、後世の歴史に汚点として残されてしまいました。その後、総大将もない旧幕府軍は敗走して、新政府軍の勝利となります。
このような戦いの流れを見ていけば、新政府軍の勝因は、兵の数でも、装備でもなく、ひとえに自軍の兵の士気を高め、相手の兵の士気をくじいた、ということと言えるでしょう。さらに、いえば、旧幕府軍が軍を展開する前に新政府軍が放った大砲がまぐれ当たりしたということで、相手の出鼻をくじいたということも新政府軍の勝因の一つとされています。
そして、何より、旧幕府軍がろくに準備もできない状態で軍を起こすように仕向けた薩摩藩の西郷隆盛と大久保利通の度重なる挑発と、旧幕府軍と薩摩藩の私戦ではなく、旧幕府軍対官軍の図式にできたことが大きいでしょう。