東郷平八郎は明治時代の海軍指揮官であり、日清戦争、および日露戦争で勝利に貢献した一人です。
特に日露戦争では、当時最強と言われたバルチック艦隊を撃破し、東郷平八郎の名が世界中に知られることとなりました。そんな東郷平八郎は1848年、薩摩国、今の鹿児島県で武士の子供として誕生します。14歳の頃には元服し、その初陣は生麦事件で対立することになったイギリスとの戦い、薩英戦争でした。その後は薩長同盟などにより、新政府軍の一員として、旧政府軍の一員であった榎本武揚や新撰組の土方歳三と対峙した五稜郭の戦いなどを経験することになります。
明治時代を迎えた東郷平八郎は、海軍士官としてイギリスに官費留学を行うことになります。当時の東郷平八郎のエピソードとして、才能はgoodだったが、行儀や品行といった面はVerygoodだったというものがあり、留学して間もない時にあったいじめが段々と無くなるなど、異国の地で自分を律し続け、結果としていじめをさせなくしたというところに東郷平八郎らしさを感じます。
この少し前には大久保利通に、東郷平八郎はおしゃべりだから駄目だと言われたことで一転して寡黙になるよう心がけ、後に沈黙の提督と評されるきっかけとなりました。イギリス留学で学んだものとしては国際法があります。いわゆる国同士の規律を保つためのもので、現代でも国際法は大変重視されています。ここで学んだことが日清戦争で活かされ、連合艦隊司令長官を任命する要因にもなりました。イギリス留学で得たものがあまりに大きかったことがこうしたことからもわかります。
1894年の日清戦争では当初は艦長として参戦し、数々の戦いで活躍すると司令官、司令長官の職に就き、戦功をあげました。そして、日露戦争の直前に連合艦隊の司令長官に就任し、日露戦争を迎えます。1904年の日露戦争では旗艦三笠に乗って海軍に関する作戦の全般を担いました。そして、1905年の日本海海戦では用意周到な作戦などもあり、当時の海軍同士の戦いでは見られなかった一方的な勝利をすることができ、ロシア側が講和条約へ舵を切ることになるきっかけを作りました。
この勝利をとても喜んだのがオスマン帝国、今のトルコで、子供に東郷平八郎の名前をとってトーゴーとつけるケースが増えるなど、世界中に衝撃を与えました。
その後、東郷平八郎は最大級の評価をされ、内閣総理大臣経験者以外では異例とも言える最高勲章をもらうなど、日本のみならず世界で評価をされた提督の一人になります。
1934年に東郷平八郎は86年の生涯を閉じることになり、国葬が行われると、各国の海軍の儀礼艦が訪日し、弔砲をあげるなどしました。東郷平八郎の死のニュースは世界中を駆け巡り、日本海軍の礎を築いた人として報道を行っていました。