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関ヶ原の戦い 西軍の敗因
関ヶ原の戦いは、1600年10月21日に諸大名が東西の両陣営に分かれて戦った歴史的な会戦です。関ヶ原の戦いでは、東軍 90,000人と西軍 80,000人が野戦で激突しましたが、わずか一日で勝敗が決し、勝ったのは徳川家康が率いる東軍でした。
しかし当日の両陣営の布陣を見ると、山麓に地形を利用して防御陣を張った西軍に東軍が攻め掛ける形で地の利は西軍方にあり、歴史家や戦術家からの視点では西軍有利のように見えます。
しかし現実の戦いでは、西軍は敗れました。
そこで今回は、関ヶ原の戦いにおける西軍の敗因について考えてみたいと思います。
石田三成の誤算
この関ヶ原の戦いでは、福島正則、加藤清正、池田輝政、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、加藤嘉明、蜂須賀家政、藤堂高虎といった豊臣恩顧の猛将たちがことごとく東軍に味方しています。
本来であれば、関ヶ原の戦いは豊臣家と徳川家康との覇権争いとなるはずでしたが、石田三成 VS. 徳川家康 の図式を崩せず、反石田で豊臣恩顧の諸将が結束する形になってしまったことは、石田三成の誤算だったでしょう。
もちろん、石田三成としても、西軍の総大将に五大老の一人 毛利輝元を据え、輝元が豊臣秀頼を奉じて参陣する準備を進めていましたが、大坂城内に内通者がいるとの情報が流れたことで、豊臣秀頼と毛利輝元の出陣は立ち消えになってしまいます。
結果として、西軍は豊臣軍としての正当性を得ることができず、求心力を欠いた状態で関ヶ原の戦いに突入することになります。
遊兵を作ってしまった
関ヶ原の戦いにおける陣形で西軍が有利であったことは前述の通りで、石田隊・小西隊・宇喜多隊が東軍主力と戦い、東軍主力が攻め疲れたタイミングで、小早川隊が左側面を突き、浅野・池田隊を破った毛利・吉川・長宗我部・長束隊が家康本隊の後背を突くことができれば、西軍の戦勝で終わったはずです。
【関ヶ原の戦い 布陣図】
しかし実際には、小早川隊は昼過ぎまで戦線参加せず、吉川隊が動かなかったことから毛利・長宗我部・長束隊は身動きが取れない状態で、西軍は半数以上の遊兵を作る形になりました。
その分、東軍主力の攻撃を受けた部隊に負担がかかり劣勢になる中、小早川隊、赤座・小川・朽木・脇坂隊の寝返りによって、西軍の戦線は一気に崩壊しました。
有利な戦況を維持できていれば、小早川・赤座・小川・朽木・脇坂隊の寝返りは避けられていた可能性もあるわけで、南宮山周辺に陣取った毛利・吉川・長宗我部・長束隊(合計 29,000人余)が完全に遊兵となったことが、関ヶ原の戦いにおける西軍の敗因の一つと言えるでしょう。
兵力の分散
西軍と東軍の戦いは関ヶ原だけではありませんでした。全国で東軍西軍に分かれて戦っており、西軍の本拠地だった大坂城のある畿内でも、関ヶ原の戦い直前から東軍側と西軍側で戦いが行われていました。
具体的には、細川幽斎が丹後田辺城に、京極高次が大津城に籠城して抵抗し、丹後田辺城では西軍 15,000人、大津城でも西軍 15,000人が攻城戦を行なっている状況でした。大軍に包囲された東軍側は勝ち目なく、細川幽斎は10/19に、京極高次は10/21に開城して降参しましたが、攻城戦に参加した 約30,000人の兵力は 10/21に行われた関ヶ原の戦いに間に合わない結果となりました。
もし、もう2〜3日時間が稼ぐことができ、関ヶ原の戦いを遅らせることができたなら、西軍は有利な戦いを進めることができたでしょう。
関ヶ原の戦いにおける西軍の敗因としては、小早川秀秋の裏切りに焦点が向きがちですが、戦術的に西軍有利の体制が作り出せていれば、また違った結果を生んでいたと思われます。