第二次長州征伐 幕府軍の敗因
第二次長州征伐は、1866年に起こった幕府軍と長州藩の間の戦いです。15万もの幕府軍は長州藩の征討に向かったものの、わずか 3500人の長州藩軍の返り討ちにあって敗れました。
そして、圧倒的な兵力で臨んだ幕府軍が第二次長州征伐で敗れたことで、幕府の権威は一気に失墜し、後の明治維新につながるきっかけとなりました。
まず、第二次長州征伐が起こった背景から見てみましょう。
第二次長州征伐が起こった背景としては、長州藩と朝廷の折り合いが年々悪化していったことが挙げられます。元々尊皇攘夷運動を展開していたのが長州藩であり、朝廷とは良好な関係でした。
しかし、当時の孝明天皇が幕府と一緒に政治を行う「公武合体運動」に理解を示し始め、たびたび幕府と衝突していた長州藩が段々邪魔な存在となっていきます。
1863年に起きた「八月十八日の政変」で、ついに長州藩は京都から追い出され、何とかして公武合体派を排除しようとする長州藩は、それをさせないように抵抗する会津藩や薩摩藩と争いを起こします。これが「禁門の変」です。
この「禁門の変」で敗れた長州藩は完全に朝敵(朝廷の敵)となってしまうことになります。そして、このタイミングで最初の長州征伐(第一次長州征伐:1864年)が行われます。35藩からなる15万の大軍が動員されましたが、この時は西郷隆盛らの尽力で戦争になることなく、長州藩を降伏させることができました。
しかし、この第一次長州征伐から第二次長州征伐の間に大きく環境が変わることになります。
まず挙げられるのが、薩長同盟です。
当時、長州藩も薩摩藩も外国の脅威を痛いほどわかっており、このままでは日本の将来が植民地状態になってしまうと懸念していました。そこで坂本龍馬の仲介の元、薩長同盟が結ばれ、薩摩藩を通して長州藩にイギリス製の武器(ミニエー銃 4300挺、ゲーベル銃 3000挺)が融通されることになりました。
そして、この最新鋭の武器が長州藩を勝利に導きます。
確かに人員では、15万人 VS. 3500人と幕府軍が長州藩を圧倒していましたが、武器の質という点では、一部の部隊を除き、戦国時代のような軍備しかなかった幕府軍と、当時の最新鋭の武器を揃えた長州藩との差は歴然としており、戦闘力では長州藩が勝っていたのです。
ちなみに、第二次長州征伐において、幕府軍は4方面から長州藩に攻め入りました。
幕府軍の兵員数 | 長州藩の兵員数 | |
大島口 | 2,000人 | 500人 |
芸州口 | 50,000人 | 1,000人 |
小倉口 | 20,000人 | 1,000人 |
石州口 | 30,000人 | 1,000人 |
この内、芸州口は装備が整った幕府歩兵隊・紀州藩兵の参戦により一進一退の戦況でしたが、石州口では拠点である益田城を落とされ、小倉口は指揮官の消極的な姿勢で諸藩が撤兵してしまうという事態の中、この戦いを指揮していた将軍 徳川家茂が急死してしまいます。
家茂死去の報を受けた幕府軍は戦意喪失となり、将軍家を継いだ徳川慶喜が休戦を朝廷に申し出て撤退し、第二次長州征伐は幕府軍の敗戦で終結したのです。
第二次長州征伐における幕府軍の敗因を挙げるならば、
- 武器の質が長州藩に劣ったこと
- 農民・町人階級の市民軍を編成し、藩が一丸となって戦った長州軍に比べ、幕府軍は各藩による混成部隊で士気が大きく劣ったこと
- 小倉口の指揮官であった小笠原長行の統率力の欠如
に加え、タイミング悪く将軍 徳川家茂が急死したことが重なったと言えるのではないでしょうか。
そして、鳥羽伏見の戦いでも、勝てたはずの戦いで惨敗を繰り返した幕府軍は、主導権を薩摩藩・長州藩に奪われ、明治維新へとつながっていくことになります。